勝手に「丁儀伝」




丁儀は曹植に関わる重要人物であるにもかかわらず、正史に伝がなく、その生涯がよくわかりません。
ここでは各種資料の断片をつなぎ合わせ、勝手な「丁儀伝」を作ってみたいと思います。
素人ゆえに勘違い盛り沢山だと思いますが、一応自分の調べた範囲ではこんな感じです。
文中の【】で囲ってある部分は、論拠となる正史及び注の原文引用です。


■はじめに

 丁儀について最も詳しい記述は、正史の注が引く「魏略」の記事である。


【《魏略》曰、丁儀字正禮、沛郡人也。父沖、宿與太祖親善、時隨乘輿。見國家未定、乃與太祖書曰、「足下平生常喟然有匡佐之志、今其時矣。」是時張楊適還河内、太祖得其書、乃引軍迎天子東詣許、以沖爲司隸校尉。後數來過諸將飲、酒美不能止、醉爛腸死。太祖以沖前見開導、常德之。聞儀爲令士、雖未見、欲以愛女妻之、以問五官將。五官將曰、「女人觀貌、而正禮目不便、誠恐愛女未必悦也。以爲不如與伏波子楙。」太祖從之。尋辟儀爲掾、到與論議、嘉其才朗、曰、「丁掾、好士也、即使其兩目盲、尚當與女、何況但眇?是吾兒誤我。」時儀亦恨不得尚公主、而與臨菑侯親善、數稱其奇才。太祖既有意欲立植、而儀又共贊之。及太子立、欲治儀罪、轉儀爲右刺姦掾、欲儀自裁而儀不能。乃對中領軍夏侯尚叩頭求哀、尚爲涕泣而不能救。後遂因職事收付獄、殺之。(「陳思王植伝」注)】


 前半は丁儀のことではなく、父の丁沖について書かれてある。次に来るのが、曹操の娘との結婚話を曹丕に邪魔されたため不仲になり、曹植に肩入れしたという有名な話である。しかし、この話はいかにも作り話っぽい。
 曹操が丁儀と結婚させようとした愛娘は、のちの清河長公主である。ここに書かれた曹丕の言葉どおり、夏侯惇の息子の夏侯楙と結婚した。ちなみに夏侯惇が伏波将軍となったのは、鄴が陥落したとき(204年)のことである。
 204年に曹丕は18歳。ここで「待てよ」という話になる。清河長公主はこの時、何歳なのだろう。もし曹丕の姉であれば、「伏波子楙」と曹丕が言った時、すでに彼女は適齢期を過ぎている。普通、良家の子女は15歳(=女性の成人)くらいで嫁ぐはずだ。もし彼女が曹丕の姉か、ほとんど曹丕とタメであるなら、彼女の結婚の時期は204年以降では遅すぎで、夏侯惇を「伏波(将軍)」と呼んだ曹丕のセリフにはウソがあるということになる。
 清河長公主は曹操と劉夫人の娘である。兄は197年に張繡との戦いで戦死した曹昂。曹昂の母である劉夫人は早くに亡くなり、子供のいなかった丁夫人に育てられた。(※正史によると劉夫人はもう一人男の子を産んでいるが、生年・没年ともに不明である。娘は記録に残らない場合も多いので、清河長公主の他に何人いるかわからない。)曹昂の生年は確定できないが、亡くなったとき20歳を過ぎていたことはわかっているから、178年以前の生まれということになる。曹操の年齢から考えると、175年前後~178年の生まれというところだろうか。この兄妹の年齢差はわからない。でも劉夫人は早くに亡くなっているから、10歳も20歳も年齢差があるとは考えにくい。普通に考えれば、5歳程度の差だったのではないだろうか。
 もし、清河長公主が曹昂より5歳くらい年下の妹だとすると、曹丕にとっては逆に5歳くらい年上の姉である。曹丕の姉の夫は、もちろん曹丕より年上のはずだ。夫となった夏侯楙も夫候補だった丁儀も、何年生まれかわからない。ただ、丁儀について言えば、曹植が贈答詩で名前を並べた王粲(177年生まれ)とほぼ同世代ではないだろうか。これなら曹昂マイナス5歳の妹とつり合いが取れる。と考えると、曹操が愛娘の嫁ぎ先を思案していた頃、曹丕はまだ10歳くらいの子供だった可能性もある。そんな子供が父親に(しかも曹操に)何かを言ったり、年長者の結婚に意見するような立場にあるだろうか。


 ・・・っていうか、普通に考えて、家庭内のオフレコ話が記録に残るって、おかしいと思います・・・


 もう一つ付け加えるなら、曹丕と丁兄弟は、最初から険悪だったわけではないようなのだ。206年、異民族の捕虜となっていた蔡琰が帰国した時、曹丕は『蔡伯喈女賦(太平御覧806)』を作り、丁儀の弟の丁廙も同タイトルの賦を作っている(芸文類聚30)。建安七子のひとり阮瑀が亡くなった時(212年)、曹丕・王粲・丁廙の妻が『寡婦賦(芸文類聚34)』を作っている。もちろん、タイトルが同じだから、同じ時に同じ場所で作ったとは限らない。しかし、どうもこの頃までは、丁一族と曹丕が同じ文学サロンのメンバーとして活動していたような雰囲気がある。(※ちなみに「丁廙の妻」は「丁儀の妻」あるいは「丁儀」が作者となっている場合がある。いずれにせよ、丁儀関連の誰かということだから、これ以上追求しないけど、丁兄弟は本人が賦を作れるだけではなく、妻もそれなりの教養人だったようだ。妻の出自が気になる・・・)


 この「曹丕が結婚を邪魔した話」は、やはり後の状況から過去にさかのぼって因縁を求めた作り話なのだろう。後から書いたため、曹丕はまるで成人したようなイメージで描かれてしまった。地の文で、曹丕が五官将(=211年就任)と書かれてあるのは、そのせいだろう。おそらく、現実にはこんなことはなかったはずだ。曹操は最初から清河長公主を夏侯惇の息子である夏侯楙に嫁がせるつもりで、それは何の問題もない通常の結婚であったと思われる。まあ、結婚後はいろいろ問題があったみたいだけど・・・
 さて、このエピソードを「ガセネタっぽい」と否定してみたものの、悲しいかな、この部分が丁儀に関する一番詳しい情報だったりする。これを除くと、あとは他人の伝に登場する断片的な情報しかない・・・




■東曹を攻撃する丁儀

 人物索引に書いたように、西曹掾の丁儀は東曹の人間と仲が悪い。ざっと正史を見ただけでも、
【徐奕字季才、東莞人也。・・・轉爲雍州刺史、復還爲東曹屬。丁儀等見寵於時、並害之、而奕終不爲動。(巻12)】
【桓階字伯緒、長沙臨湘人也。・・・又毛玠、徐奕以剛蹇少黨、而爲西曹掾丁儀所不善、儀屢言其短、賴階左右以自全保。其將順匡救、多此類也。(巻22)】
【《魏書》曰、時丁儀兄弟方進寵、儀與夔不合。尚書傅巽謂夔曰、「儀不相好已甚、子友毛玠、玠等儀已害之矣。子宜少下之!」夔曰、「爲不義適足害其身、焉能害人?且懷姦佞之心、立於明朝、其得久乎!」夔終不屈志、儀後果以凶偽敗。(巻12「何夔伝」注)】
【《魏書》曰、或謂奕曰、「夫以史魚之直、孰與蘧伯玉之智?丁儀方貴重、宜思所以下之。」奕曰、「以公明聖、儀豈得久行其偽乎!且姦以事君者、吾所能禦也、子寧以他規我。」《傅子》曰、武皇帝、至明也。崔琰、徐奕、一時清賢、皆以忠信顯於魏朝、丁儀閒之、徐奕失位而崔琰被誅。(巻12「徐奕伝」注)】


 要するにここに書かれているのは、崔琰・毛玠・徐奕・何夔は丁儀と仲が悪く、丁儀は彼らを殺したり左遷したりしようと計ったという話。崔琰・毛玠・徐奕・何夔は、曹操が魏公になる前に東曹掾や東曹属であったことがある。東曹は人事を管轄する部署である。そして、東曹メンバーには、後継争いのとき曹丕を支持した人物が多い。


【崔琰字季珪、清河東武城人也。・・・太祖爲丞相、琰復爲東西曹掾屬徵事。初授東曹時、教曰、「君有伯夷之風、史魚之直、貪夫慕名而清、壯士尚稱而厲、斯可以率時者已。故授東曹、往踐厥職。」魏國初建、拜尚書。時未立太子、臨菑侯植有才而愛。太祖狐疑、以函令密訪於外。唯琰露板答曰、「蓋聞春秋之義、立子以長、加五官將仁孝聰明、宜承正統。琰以死守之。」植、琰之兄女婿也。太祖貴其公亮、喟然歎息、遷中尉。】
【毛玠字孝先、陳留平丘人也。・・・太祖爲司空丞相、玠嘗爲東曹掾、與崔琰並典選舉。・・・遷右軍師。魏國初建、爲尚書僕射、復典選舉。時太子未定、而臨菑侯植有寵、玠密諫曰、「近者袁紹以嫡庶不分、覆宗滅國。廢立大事、非所宜聞。」後羣僚會、玠起更衣、太祖目指曰、「此古所謂國之司直、我之周昌也。」】
【邢顒字子昂、河間鄚人也。・・・後參丞相軍事、轉東曹掾。初、太子未定、而臨菑侯植有寵、丁儀等並贊翼其美。太祖問顒、顒對曰、「以庶代宗、先世之戒也。願殿下深重察之!」太祖識其意、後遂以爲太子少傅、遷太傅。】(12)
 それから、東曹経験者ではないが、何かと東曹メンバーと関わってくる桓階も曹丕を支持している。
【桓階字伯緒、長沙臨湘人也。・・・魏國初建、爲虎賁中郎將侍中。時太子未定、而臨菑侯植有寵。階數陳文帝德優齒長、宜爲儲副、公規密諫、前後懇至。《魏書》稱階諫曰、「今太子仁冠羣子、名昭海内、仁聖達節、天下莫不聞、而大王甫以植而問臣、臣誠惑之。」於是太祖知階篤於守正、深益重焉。】


 以上から、「丁儀が攻撃した東曹メンバー=曹丕の支持者」という図式がおおよそ成り立つ。しかしこれは、どちらが原因で、どちらが結果なのかよく分からない。東曹の人間が曹丕を支持したから、曹植支持派の丁儀と仲が悪くなったのか、もともと東曹の人間と丁儀の仲が悪かったから、彼らは丁儀の擁立した曹植を支持せず、曹丕を立太子しようと動いたのか。
 実は正史には、丁儀の関わらない部分でも「東曹VS西曹」のエピソードがある。毛玠が東曹だった時期に「東曹をなくせ」という意見があったが、曹操はそれを否定し、西曹を廃した。【玠請謁不行、時人憚之、咸欲省東曹。乃共白曰、「舊西曹爲上、東曹爲次、宜省東曹。」太祖知其情、令曰、「日出於東、月盛於東、凡人言方、亦復先東、何以省東曹?」遂省西曹。】この頃、まだ丁儀は西曹掾ではなかったようだから、東曹と西曹はかねてから組織的に対立していた可能性が高い。そもそも、東曹も西曹も人事に関する部署だから、互いに意見が衝突することが多かったのだろう。
 毛玠が東曹にいたのは魏国成立(213年)の前である。また、毛玠は東曹掾の時代に、丁斐をしばしば弾劾した。【《魏略》曰、・・・丁謐、字彦靖。父斐、字文侯。初、斐隨太祖、太祖以斐郷里、特饒愛之。・・・其後太祖問斐曰、「文侯、印綬所在?」斐亦知見戲、對曰、「以易餅耳。」太祖笑、顧謂左右曰、「東曹毛掾(※東曹掾の毛玠)數白此家、欲令我重治、我非不知此人不清、良有以也。我之有斐、譬如人家有盜狗而善捕鼠、盜雖有小損、而完我囊貯。」遂復斐官、聽用如初。後數歲、病亡。】
 丁斐は丁儀と同じ沛国の人である。だからこれは「東曹VS西曹」の争いではなく、「東曹VS丁一族」の争いではないかと考えることも出来る。しかし、丁一族のみの力で、のちに丁儀が行ったような強気な謀略を行うことが出来たのかは疑問である。矢面に立ったのは丁一族だが、それを支持する潜在的な勢力というのが背景にあったのではないだろうか。


 213年11月、魏に初めて尚書、侍中、六卿を置いた。そのメンバーは尚書令の荀攸、尚書僕射の涼茂、尚書の毛玠・崔琰・常林・徐奕・何夔、侍中に王粲・杜襲・衛覬・和洽。この中で東曹経験者は毛玠・崔琰・常林・徐奕・何夔。魏国成立前の東曹が、そのまま昇格して魏国成立後の尚書となったことがよく分かる。
 西曹掾の丁儀が崔琰や毛玠を攻撃したのは、魏国成立後~216年頃のことと思われる。毛玠が東曹掾だったときに無くした西曹掾は、数年後には復活していたようだ。丁儀は曹操の庇護をバックに、東曹メンバーの崔琰や毛玠を攻撃している。厳密に言えば、丁儀は東曹を攻撃したのではなく、(元)東曹で(現)尚書を攻撃したことになる。(※ちなみに曹操が曹植を後継者にしたいと言い出したのも、崔琰が尚書だった時期である。)流れをまとめると「曹操の東曹優遇(=西曹の敗北)→魏国成立(=東曹は尚書に昇格)→曹操は丁儀の尚書攻撃を容認(=東曹の敗北)」となる。
 それにしても、魏国成立前と成立後で、曹操の態度は180度変化している。さらにこの後、曹丕が立太子され、丁儀は失脚する。ここでまた曹操の態度が急変したことになる。なぜ曹操の態度がコロコロ変わるのかについては、私の手に負える範囲ではなさそうなので、とりあえず思考放棄します。


■西曹掾の丁儀

 東曹と西曹が対立していた210年代、東曹にいた人物はのちに魏の高官となって、多く名前が残っているが、西曹にいた人物はほとんど名前が残っていない。東曹メンバーが曹丕の立太子と共に出世コースに乗ったのと反対に、西曹メンバーは出世コースから外れ、正史に伝を立ててもらえるほどの高官になれなかったのだろうか。
 正史を「西曹掾」で検索すると、210年代の西曹掾として名前が出てくるのは、郭諶・丁儀・魏諷の三人である。このうち、魏諷は相国であった鍾繇の西曹掾ではないかと思われるので、丞相西曹掾の丁儀とはポジションが違うかもしれない。もう一人の郭諶は、曹操の張魯討伐(215年)に同行し、進言しているので、おそらく曹操の西曹掾なのだろう。【・・・魯走巴中。軍糧盡、太祖將還。西曹掾東郡郭諶曰、「不可。魯已降、留使既未反、衛雖不同、偏攜可攻。縣軍深入、以進必克、退必不免。」太祖疑之。夜有野麋數千突壞衛營、軍大驚。夜、高祚等誤與衛衆遇、祚等多鳴鼓角會衆。衛懼、以爲大軍見掩、遂降。(「張魯伝」注)】
 西曹は府内の人事を取り仕切る部署であり、西曹掾はそのトップである。しかし、この郭諶の進言をみてみると、人事の仕事というより、軍事参謀のようなことを言っている。西曹トップは西曹掾で、№2は西曹属という。建安末期に丞相西曹属であったのではないかと思われる蒋済は、やはり戦場について行って参謀のような進言をしている。215年頃の西曹掾であった郭諶と、建安末期の西曹属であった蒋済は、仕事の内容が近い感じがする。
 では「西曹掾の丁儀」はどうだろう。丁儀が何年ごろに西曹掾であったのかははっきりしない。(※丁儀はずっと西曹掾だけしてたわけではなく、他にもいくつかの役職をこなしたはずだが、資料がないので分からない。)丁儀は東曹の人間と対立していた。そのことを考えると、やはり丁儀は軍事参謀ではなく、人事の仕事をしていたと解釈するのが妥当だろう。『三国志』には記録がないが、丁儀は最高位で尚書になっていたらしい。『隋書』「経籍志」に「後漢尚書丁儀集一巻」とある。『隋書』「経籍志」は、建安年間の人物は一律に「後漢」とつけているので、実際は魏の尚書と解釈して構わないだろう。もちろん丁儀が本当に「後漢」の尚書だった可能性も否定は出来ないが、丁儀が一時期、崔琰や毛玠を追い込む力を持っていたことを考えれば、魏の尚書であったとするのが妥当だろう。飛ぶ鳥も落とす勢いの丁儀は、ついに魏国の人事の中枢を占めるようになっていた・・・かな?
 もし丁儀が尚書となっていたなら、その時期は、崔琰と毛玠を政界から追放し、徐奕を左遷した頃(216年頃)のことだろうか。ひょっとすると、丁儀と東曹メンバーがかぶって尚書だった時期があったかもしれない。殺伐とした職場になりそうだ・・・
   

■興味深い中尉人事

 中尉は213年、魏に初めて置かれた。一番早い時期の中尉で名前が明らかになっているのは、涼茂だろう。涼茂は曹丕の後見人と言ってもいい人物で、常に曹丕をサポートする立場にあった。後継争いに口を出した記録は無いが、質問するまでもなく曹丕派である。涼茂の次の中尉は崔琰のようだ。
 崔琰は、尚書時代に後継者問題について質問され、「曹丕を太子に」と答えた。間もなく中尉に昇進し、その位にあったとき、罪に問われて殺された。崔琰の死後、中尉の座についたと思われるのは楊俊である。楊俊の次は徐奕。徐奕は崔琰とともに丁儀に攻撃され、左遷された人である。【丁儀閒之、徐奕失位而崔琰被誅。(「徐奕伝」注)】この人は、楊俊が中尉をクビになった時、左遷先から中尉として中央に戻されたようだ。その時、中尉に徐奕を推薦したのは、やはり「曹丕を太子に」と言った桓階であった。【太祖征漢中、魏諷等謀反、中尉楊俊左遷。太祖歎曰、「諷所以敢生亂心、以吾爪牙之臣無遏姦防謀者故也。安得如諸葛豐者、使代俊乎!」桓階曰、「徐奕其人也。」太祖乃以奕爲中尉、手令曰、「昔楚有子玉、文公爲之側席而坐、汲黯在朝、淮南爲之折謀。詩稱『邦之司直』、君之謂與!」在職數月、疾篤乞退、拜諫議大夫、卒。(「徐奕伝」)】(※桓階は崔琰が殺されたことに不快感を示した毛玠が罪に問われそうになった時も弁護している。東曹メンバーの世話焼き女房みたいだ。【時桓階、和洽進言救玠。玠遂免黜、卒於家。(「毛玠伝」)】)
 それぞれの間には別の誰かが入る可能性もあるが、楊俊→徐奕の人事は確定である。しかし、誰も任期(多分3年?)を越えていないし、涼茂→崔琰→楊俊→徐奕のリレーで問題ないと思われる。
 崔琰と徐奕は魏国成立前の東曹の人間で、ともに魏の初代尚書である。そして、二人とも丁儀に攻撃された人物だ。この「丁儀が攻撃した東曹メンバー」にサンドイッチされて中尉となった楊俊は、東曹にいた記録がない。しかも、楊俊は後継者問題について問われた時、どちらに継がせるべきとは言わなかったが、曹植の方がより立派だと付け足した人物である。前後の中尉であった崔琰・徐奕とは正反対の人物だ。【楊俊字季才、河内獲嘉人也。・・・初、臨菑侯與俊善、太祖適嗣未定、密訪羣司。俊雖並論文帝、臨菑才分所長、不適有所據當、然稱臨菑猶美、文帝常以恨之。(「楊俊伝」)】
 210年代の中尉として名が残っている人物はもう一人いて、邢貞という。中尉邢貞は「程昱伝」に登場する。【魏國既建、爲衛尉、與中尉邢貞爭威儀、免。)】のちに太常となった邢貞は、曹丕が帝位に就いた後、呉に使者として行ったので、「文帝紀」や「張昭伝」「徐盛伝」にも記述がある。【使太常邢貞持節拜權為大將軍、封吳王、加九錫。(「文帝紀」)など】この邢貞には列伝がないが、おそらく後継者問題で「曹丕を太子に」と言った邢顒と同一人物だろう。邢貞は黄初2年に太常の身分で呉へ行き、邢顒は黄初4年に太常で亡くなっている。【文帝踐阼、爲侍中尚書僕射、賜爵關内侯、出爲司隸校尉、徙太常。黄初四年薨。(「邢顒伝)】東曹メンバーの昇進の順番からいっても、邢顒が210年代末に中尉となることは、全く不自然じゃない。(※っていうか、ここに突然「邢貞」という別の人物が出てきて中尉になる方が不自然なくらいだ。)
 邢顒が中尉となったのは、おそらく徐奕が亡くなった後(219年)ではないかと思う。中尉の変遷は、涼茂→崔琰→楊俊→徐奕→邢貞(=邢顒)となり、楊俊以外すべて曹丕派東曹閥で占められている。となると、ひとり異質な楊俊を中尉にしたのは、尚書となった丁儀の発案ではないかという気がしてくる。時期的にも丁儀が力を持っていた頃だし、曹植を高く評価した楊俊を崔琰の後釜に持って来たのは、少なくとも東曹メンバーの発想ではない。
 さて、その楊俊だが、222年、皇帝となった曹丕に殺されている。罪状は言い掛かりのようなもので、最初から楊俊を殺すために準備したようだった。楊俊はすでに覚悟が出来ていたようで、「私は自分の罪を知っています」と言って自殺した。【黄初三年、車駕至宛、以市不豐樂、發怒收俊。尚書僕射司馬宣王、常侍王象、荀緯請俊、叩頭流血、帝不許。俊曰、「吾知罪矣。」遂自殺。衆冤痛之。】
 それ以前、楊俊は219年に中尉をクビになっている。そのきっかけとなったのは、219年9月に起きた魏諷の乱である。      


■魏諷の乱

 219年の魏諷の乱の時、楊俊は中尉(=鄴の宮殿警備担当)だったにもかかわらず、反乱を食い止められなかった責任を取って、中尉を退いた。その後は平原太守に左遷され、完全に出世コースから外れている。
 魏諷の乱は不思議なクーデターである。例えば、192年の董卓に対するクーデターは「董卓殺害」である。であるなら、曹操に対するクーデターは「曹操殺害」のはずだ。しかし、魏諷が反乱を起こした鄴に曹操はいなかった。軍を率いて遠征中だったのである。鄴であの時期に謀反を起こしても、曹操は殺せない。クーデター後の統治のために必要な軍を掌握しようにも、あの時期、主力軍は出払っていて、鄴には多少の守備兵と文官しかいなかっただろう。
 それなら、これは一体何のためのクーデターなのか。仮にクーデターに最大限成功し、一時的に鄴を占拠したとしても、遠征中の曹操が大軍を率いて帰還し、鄴を囲んでしまえばどこへも逃げられない。【《世語》曰、諷字子京、沛人、有惑衆才、傾動鄴都、鍾繇由是辟焉。大軍未反、諷潛結徒黨、又與長樂衛尉陳禕謀襲鄴。未及期、禕懼、告之太子、誅諷、坐死者數十人。王昶《家誡》曰「濟陰魏諷」、而此云沛人、未詳。】
 実はこの時期のクーデターにはもうひとつ手段があって、後漢の献帝がいる許都で反乱を起こし、皇帝を連れ去って他国へ亡命するという方法である。前年に起こった吉本らの反乱は、この手法を取って許都を攻めた。だから呉や蜀と連携するつもりなら、魏諷は鄴ではなく許都でクーデターを起こしたはずである。
 では魏諷は何がしたかったのか。鄴で反乱する。これが成功したとして、手に入れられる成果は、一時的に鄴を支配下に置くことしかない。ただ、魏諷がもうひとつ達成できることがあった。それは、鄴の守備を命じられていた曹丕を殺すことである。


 この反乱を鎮圧したのは「曹丕とその一派」である。逆を言えば、このクーデターに成功した時、魏諷は「曹丕とその一派」を殺すことが出来た。だから、これは曹操に対するクーデターではない。曹丕を殺すためのクーデターだったのだ!(←と勝手に断定!)曹丕によっていびり殺された張繡の息子(=張泉)が魏諷の仲間に加わっていたのは、偶然ではないだろう。また、反乱に加わって曹丕に殺された王粲の息子について、曹操は「もしわしがそこにいたなら、仲宣の後継ぎがなくなるようなことはさせなかったのに【孤若在、不使仲宣無後】」と嘆いたという。曹丕は曹操が帰還するまで、謀反人の処刑を待つことも出来た。しかし、王粲の息子たちは、曹操が帰ってきてしまえば殺されずに釈放される可能性がある。曹丕派は先手を打って殺しておかなければならなかったのだろう。なんせ自分達の命を狙った相手だから。王粲は、曹植が身内以外で誄を残したたった二人のうちの一人であり、曹植と特別に親しかった。曹植は『王仲宣誄』の中で、王粲本人を悼むだけでなく、残された王粲の息子たちにも気遣いを見せている。だからこそ、曹丕派は王粲の息子たちを曹植派の危険分子だと考えたのだろう。


 もちろん、これが曹丕を殺すための反乱だったという証拠はどこにもない。とにかく魏諷の乱は資料が少なすぎて、何のことやらよく分からない乱なのだ。しかし、この乱に加わっていた張繡の息子や王粲の息子たちには共通点がある。彼らの親は、生きていればそれなりの高官だったかもしれないが、すでに亡くなって魏の中枢にいない。魏の人事は「九品官人法」が成立した後ですら、「魏国の人事は甚だ現金なもので、現在の権勢家には阿るが、過去の人には見向きもしない(『九品官人法の研究』宮崎市定)」と指摘されるほどであったという。全く制度の整っていないこの時期、親が若くして第一線を退いてしまうと、その子はかなり不利な状況だったのかもしれない。(※この傾向は、曹丕派の人物の子供でも免れなかったようだ。【丁亥令曰、「故尚書僕射毛玠、奉常王脩、涼茂、郎中令袁渙、少府謝奐、萬潛、中尉徐奕、國淵等、皆忠直在朝、履蹈仁義、並早即世、而子孫陵遲、惻然愍之、其皆拜子男為郎中。」】しかし、彼らはこのように特別な布令によって救われたり、亡父の人脈などで引き上げてもらえたりする可能性があった。逆を言えば、そういう「引き」がない若い人間は、中央官僚になる道が閉ざされていたということだろう。)実は「父不在の二世」という傾向は、魏諷の仲間だけではなく、曹植の支援者にもある。丁兄弟、荀惲、楊脩、みな同じ状況である。(※それぞれ父は丁沖、荀彧、楊彪。楊彪は亡くなっていないが、魏なんぞにに仕える気がない。)
 このように、人事の面で考えれば、210年代に行われていた東曹(=曹丕派)の流れを汲む魏国の人事が、彼らのような存在に冷たかったことに対する反発があったのではないかと思われる。だから丁儀はこう考えた。「俺は魏王の庇護を受けて出世できたが、同じような境遇で苦しんでいる仲間が大勢いる。どんな手段を使っても必ず権力を手に入れ、同志のために魏の人事のあり方を正しい方向に導かねばならない。これは俺の使命だ!」・・・・・・あ、いま一瞬、丁儀がちょっといい人っぽく見えませんでした?見えましたよね?全部妄想だけど。
 曹丕がいなくなれば、次は曹植が後を継ぐしかない。曹植が後を継げば、ブレーンの丁儀らの意見によって、人事の方針は大きく変わる可能性が高い。楊俊という人は、家柄にとらわれず、有能な若者を援助したり推挙したりすることに熱心だった。彼の目にも、この時期の魏国の人事は、少し間違った方向に進もうとしていると映ったのかもしれない。楊俊は、魏諷が乱を起こそうとしていることに気付いていたが、目をつぶっていたのだろう。魏諷の乱後の楊俊の対応は、ただ中尉としての責任を取ったというには、やりすぎのような気がしないでもない。【魏國既建、遷中尉。太祖征漢中、魏諷反於鄴。俊自劾詣行在所。俊以身方罪免、牋辭太子。太子不悦、曰、「楊中尉便去、何太高遠邪!」遂被書左遷平原太守。(「楊俊伝」)】


 この楊俊と似た運命を辿ったのが、鍾繇である。丁儀が絶頂期を迎えたであろう216年に相国となっている。(※楊俊が中尉に昇進したのも、崔琰が殺された216年のことだろう。)しかし、魏諷の乱で失脚。鍾繇は相国の前に大理であった。その時、丁儀が因縁をつけた毛玠を、厳しく取調べしている。しかも、その取調べ方が尋常じゃない。


【崔琰既死、玠内不悦。後有白玠者、「出見黥面反者、其妻子沒爲官奴婢、玠言曰『使天不雨者蓋此也』。」太祖大怒、收玠付獄。大理鍾繇詰玠曰、「自古聖帝明王、罪及妻子。書云、『左不共左、右不共右、予則孥戮女。』司寇之職、男子入於罪隸、女子入於舂 。漢律、罪人妻子沒爲奴婢、黥面。漢法所行黥墨之刑、存於古典。今真奴婢祖先有罪、雖歷百世、猶有黥面供官、一以寬良民之命、二以宥并罪之辜。此何以負於神明之意、而當致旱?案典謀、急恆寒若、舒恆燠若、寬則亢陽、所以爲旱。玠之吐言、以爲寬邪、以爲急也?急當陰霖、何以反旱?成湯聖世、野無生草、周宣令主、旱魃爲虐。亢旱以來、積三十年、歸咎黥面、爲相值不?衛人伐邢、師興而雨、罪惡無徵、何以應天?玠譏謗之言、流於下民、不悦之聲、上聞聖聽。玠之吐言、勢不獨語、時見黥面、凡爲幾人?黥面奴婢、所識知邪?何緑得見、對之歎言?時以語誰?見答云何?以何日月?於何處所?事已發露、不得隱欺、具以狀對。」玠曰、「臣聞蕭生縊死、困於石顯、賈子放外、讒在絳、灌、白起賜劍於杜郵、晁錯致誅於東市、伍員絶命於呉都、斯數子者、或妒其前、或害其後。臣垂齠執簡、累勤取官、職在機近、人事所竄。屬臣以私、無勢不絶、語臣以 、無細不理。人情淫利、爲法所禁、法禁於利、勢能害之。青蠅橫生、爲臣作謗、謗臣之人、勢不在他。昔王叔、陳生爭正王廷、宣子平理。命舉其契、是非有宜、曲直有所、春秋嘉焉、是以書之。臣不言此、無有時、人。説臣此言、必有徵要。乞蒙宣子之辨、而求王叔之對。若臣以曲聞、即刑之日、方之安駟之贈、賜劍之來、比之重賞之惠。謹以狀對。」(「毛玠伝」)】 


 初めてこれを読んだとき、「鍾繇ってこういうキャラだったの?」と驚いた覚えがある。セリフの最後のほうなんて、訳すのも恐ろしい・・・。これは「職務に忠実だっただけ」とは言い難い。鍾繇は毛玠に何か恨みがあったのではないだろうか。
 東曹は、曹操が魏公になった時、そのまま尚書に昇格したグループである。毛玠も含め、彼らは魏公就任に協力的だったのだろう。鍾繇を推挙した荀彧は、曹操が魏公になるのを反対したことで命を落とした。毛玠は荀彧とほぼ同時期(190年代前半)から曹操に臣従した古参で、同じように献帝の奉戴を曹操に勧めている。にもかかわらず、荀彧とは反対の道を選んだ。荀彧と親しかった鍾繇にしてみれば、その辺りに「裏切り」と感じられる部分があったのではないだろうか。もちろん、鍾繇も「魏公就任受諾をすすめる文書」に名前を連ねてはいる。しかし、名前があるから本気で勧めていたとは限らない。
 鍾繇が毛玠を厳しく取り調べたのは、曹操の命令だからで、鍾繇はそんなことはしたくなかったのに無理やりやらされたという解釈も出来る。しかし、鍾繇は最後まで献帝を見捨てなかった長安同行組のひとりだったりするので、↑に書いたような解釈のほうが近いのではないかと思いました。(※ちなみに、曹植派の丁儀と楊脩の父も長安同行組。丁儀や楊脩が親に同行していたかどうかは定かではないが、もしそんなことがあったなら、鍾繇や丁儀や楊脩は長安時代からの知り合いかもしれない。)あと、鍾繇については、管理人がかつて作った相関図にも色々書いてあるので御覧下さい。
 鍾繇は、毛玠に対する仕打ちや、丁儀が隆盛を極めていたのと時を同じくして相国になったことを考えても、東曹とは少し距離があったのだろう。しかし、その後の処遇を見る限り、楊俊ほどひどい目にはあっていないので、曹植派というわけではなさそうだ。しかし、曹操時代の功績のわりに出世が控えめな気がするのは、私だけでしょうか?
 他にも魏諷の乱で連座しそうになった人の中に、劉廙という人がいる。彼も丁儀と近い人物のようである。【劉廙字恭嗣、南陽安衆人也。・・・廙著書數十篇、及與丁儀共論刑禮、皆傳於世。(巻21)】なぜか魏諷の乱で連座した人達と丁儀には何らかのつながりや共通点を感じる。しかも、丁儀はこの乱に一切絡んでこない。かえって不思議な感じがする。
 


■その後の丁儀

 一時は隆盛を極めた丁儀であったが、217年末に曹丕が立太子されたことで、実質的に失脚したと思われる。この頃、陳羣が侍中となって、東西曹掾を配下に置いた。【羣轉爲侍中、領丞相東西曹掾。在朝無適無莫、雅杖名義、不以非道假人。・・・及即王位、封羣昌武亭侯、徙爲尚書。制九品官人之法、羣所建也。(「陳羣伝」)】曹丕の四友である陳羣が東西曹を統括する地位に就いたことで、長く続いた「東曹VS西曹」の仁義なき戦いは終焉を迎えた。
 陳羣はこの侍中就任の頃から、「九品官人法」の試案を作り始めたのかもしれない。「九品官人法」というと曹丕の手柄のように言われるが、この法律が施行されたのは曹丕が魏王となって間もなくである。そんな簡単にポンと出来上がる法律でもないだろうから、おそらく曹操が存命中から計画され、実行される日を待っていたのだろう。ただ、曹丕が立太子されて以降、尚書と東曹と太子府は一体となって人事を行った。【文帝爲太子、以涼茂爲太傅、夔爲少傅、特命二傅與尚書東曹並選太子諸侯官屬。(「何夔伝」)】曹丕がこの法律の立案に関わった可能性もあり、これを曹丕の手柄としても問題ないのかもしれない。しかし、そもそも人事の最高責任者に陳羣を指名したのは曹操であるから、曹操の功績と言った方が正しいのかもしれない。


 曹丕が立太子され、人事権も曹丕派の手に落ちた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった丁儀は、その後、『魏略』によると右刺姦掾に左遷されている。【及太子立、欲治儀罪、轉儀爲右刺姦掾、欲儀自裁而儀不能。乃對中領軍夏侯尚叩頭求哀、尚爲涕泣而不能救。】
 曹操が生きている間は、まだそれで済んだ。曹丕が後を継ぐと、丁儀は一族皆殺しにされたという。【文帝即王位、誅丁儀・丁廙并其男口。】丁儀が何歳で亡くなったのかは分からないが、おそらくまだ40過ぎの働き盛りだっただろう。


 ただし、本当に一族皆殺しにされたのかとうかは疑問な点もある。『晋書』には陳寿が丁儀の子孫に「お前の先祖に立派な伝を立てて欲しいなら、賄賂をよこせ」と要求した話が載っている。【陳壽字承祚、巴西安漢人也。・・・或云丁儀、丁廙有盛名於魏、壽謂其子曰、「可覓千斛米見與、當為尊公作佳傳。」丁不與之、竟不為立傳。】もし本当に一族が皆殺しになっていたら、子孫が存在するはずない。(※のちにお許しが出て、傍流の家から養子をもらって家を再興した可能性はある。)この『晋書』のエピソードが本当がどうかは分からないが、『三国志』に「丁儀伝」がないことに象徴されるように、正史は、丁儀という存在を極力消そうとしているかのように感じる。丁儀が魏に与えた影響が大きいことを多くの人が知っているのに、陳寿がそういう描き方しかしなかったから、『晋書』のようなエピソードも説得力があったのだろう。陳寿には「一族皆殺し」と書かれた丁儀だが、『魏略』では、のちに職務にかこつけて殺されたと書いてある。こちらが本当なら、一族皆殺しというわけではなさそうだ。【後遂因職事收付獄、殺之。】


■最後に

 いろいろ検討してきたが、こうして見てみると、丁儀は政争に敗れて散っていった政治家のひとりに過ぎない。一体、丁儀が東曹と争って、最後に目指したものは何だったのだろうか。単なる権力欲? それとも丁一族の繁栄? あるいはもっと別の理想の実現だろうか。残念ながら、それを明らかに出来るような資料は残っていない。


 歴史は敗者について多くを語ってくれない。たとえ志が間違っていたわけではなく、権力闘争や軍事戦略で敗れたとしても、敗者は「こんな人間なら不幸になっても当たり前」というように脚色されていく。今回、その脚色のすき間に転がっている真実を少しでも抽出したいと思ったのですが、なんせ丁儀の評判は悪すぎて、正直どうにもなりませんでしたm(__)m


 他にも丁儀は文人の列伝である巻21に少し登場する。
【自潁川邯鄲淳、繁欽、陳留路粹、沛國丁儀、丁廙、弘農楊脩、河内苟緯等、亦有文采、而不在此七人之例。】
 この文脈で触れることがなかった丁儀関連の正史の記述。
【衛臻字公振、陳留襄邑人也。・・・初、太祖久不立太子、而方奇貴臨菑侯。丁儀等爲之羽翼、勸臻自結、臻以大義拒之。(巻22)】
 この記述も興味深い。丁儀は「この人なら自分の派閥に加わってくれるかもしれない」という目算があって誘ったのだろう。こういうどっちに転ぶかわからない中立派が相当数いたのだろう。
 それから、丁儀の弟の丁廙について。
【廙字敬禮、儀之弟也。《文士傳》曰、廙少有才姿、博學洽聞。初辟公府、建安中爲黄門侍郎。廙嘗從容謂太祖曰、「臨菑侯天性仁孝、發於自然、而聰明智達、其殆庶幾。至於博學淵識、文章絶倫。當今天下之賢才君子、不問少長、皆願從其游而爲之死、實天所以鍾福於大魏、而永授無窮之祚也。」欲以勸動太祖。太祖答曰、「植、吾愛之、安能若卿言!吾欲立之爲嗣、何如?」廙曰、「此國家之所以興衰、天下之所以存亡、非愚劣瑣賤者所敢與及。廙聞知臣莫若於君、知子莫若於父。至於君不論明闇、父不問賢愚、而能常知其臣子者何?蓋由相知非一事一物、相盡非一旦一夕。況明公加之以聖哲、習之以人子。今發明達之命、吐永安之言、可謂上應天命、下合人心、得之於須臾、垂之於萬世者也。廙不避斧鉞之誅、敢不盡言!」太祖深納之。(「陳思王植伝」注)】


 以上、管理人の妄想「丁儀伝」でした。
 書きながら、「人気のない丁儀について知りたい人なんているかなあ」と疑問に思わなくもなかったのですが、このサイト的には非常に重要人物なので、自分の頭を整理するためにも書いてみました。他に漏れている資料をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご指摘いただけるととってもありがたいです。 

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