『疫気を説く』

建安二十二年、癘氣流行。家家有僵尸之痛、室室有號泣之哀。或闔門而殪、或覆族而喪。或以爲疫者、鬼神所作。夫罹此者、悉被褐茹藿之子、荊室蓬戸之人耳。若夫殿處鼎食之家、重貂累蓐之門、若是者鮮焉。此乃陰陽失位、寒暑錯時、是故生疫。而愚民懸符厭之、亦可笑也。 建安二十二年、癘氣流行す。家家 僵尸の痛有り、室室 号泣の哀有り。或いは闔門(こうもん)にして殪(たお)れ、或いは族を覆して喪(ほろ)びる。或もの以爲らく疫は鬼神の作すところと。夫れ此れに罹るは、悉(ことごと)く被褐茹藿の子、荊室蓬戸の人のみ。夫れ殿に処り鼎して食するの家、貂を重ね蓐を累ぬるの門の若きは、是(かく)の若き者は鮮し。此れ乃ち陰陽の失位して、寒暑 錯時し、是れ故に疫生ず。而るに愚民符を懸け之を厭えるは、亦た笑う可きなり。  建安22年、疫病が猛威を振るった。どの家にも亡くなる者があり、家族は悲しみに咽び泣いた。ある一家は残らず死に絶え、ある一族は尽き果てた。ひとはこの疫病が鬼神の仕業であると思っている。しかし、この病に罹ったものは、粗末な毛の衣を着て豆を食べている子供や、貧しい家の男女ばかりで、食事も十分で、貂を重ねたベットで眠っているような富家の者で、疫病によって死に至る者はたいへん少ない。要するに陰陽が正しい位置を狂わせ、寒波や暑さが時期を誤って訪れたため疫病が流行したのである。それなのに、浅はかな者はおふだを貼り付けて疫病を抑えようとしているが、まったく可笑しな話である。
【『疫気を説く』】呉遠征による建安七子の死(218年)をきっかけに、疫病の原因を明らかにしようとして作られた作品。赤壁の戦いの時、疫病が蔓延し、とても戦える状況ではなかったと言われているが、217年の呉遠征でもまた疫病が流行し、多くの死者が出た。疫病でこの世を去った七子のひとり王粲に対し、リリカルで幻想的な哀悼文(『王仲宣誄』)を残した曹植は、一方で、この『説疫気』のようなロマンチックのかけらもない作品を残している。 【貧しい家の男女】原文「荊室蓬戸」。荊はいばら、蓬はよもぎ。荊室は後漢の梁鴻(『後漢書』巻83に伝あり)の妻孟光の故事から妻の謙称であり、戸は家の意から転じて大人の男性を表す。 【陰陽が正しい位置を狂わせ】儒教の考え方では、天候不順は単なる偶然ではなく、為政者の責任であるとされる。要するに「天災=政治が悪い」ということで、正史の本紀(皇帝の伝)に日食や洪水の記述があるのもそのためである。時の為政者は曹植の父曹操、疫病の流行について述べるのは、父の政治を否定することになりかねない微妙な問題である。しかし、曹植は『誥咎文』の序で「天地の気、自ら変動あり。未だ必ずしも政治の興し致すところにあらざるなり」と政治と天災の関連性を否定している。この作品の場合も、単なる天候不順であることを強調したかったのだろう。 



|戻る|

inserted by FC2 system