『私家版 曹子建集』人物索引

曹植の作品に実名で登場する歴史上の人物。五十音順。
(*あくまで作品の中でどう扱われているかを書いているので、
人物の経歴などについては詳しく触れていません。)


 【王粲(おうさん)】字:仲宣(ちゅうせん)177 - 217

〔登場作品〕 : 「贈王粲」「贈丁儀・王粲」「王仲宣誄」「七啓

曹植の『七啓』に、「并(あわ)せて王粲に命じて作らしむ」と、ある時期、王粲が曹植の側近だったことを匂わせる言葉があり、二人はかなり親しかったようである。『王粲に贈る』『王仲宣誄』にみえる曹植の言葉からも、深い尊敬の念が感じられる。かねてから曹植はひと回りも世代の違う友人たちと、一体どんな話をしていたのだろうと思っていたのだが、『王仲宣誄』によると、集まって「宿命の是非」について討論したりしてたらしい。曹植は文人たちとの競作も多く、彼らの会合は、宴会というより勉強会のような要素が強かったのかもしれない。

 【王朗(おうろう)】字:景興(けいこう)? - 228 

〔登場作品〕 : 「輔臣論」

曹操に仕え要職を歴任し、文帝の下で司空、明帝の下で司徒にのぼった。教養豊かで剛直な人物で、文帝・明帝相手に諫言も辞さなかった。『輔臣論』に名を連ねる人物は、王(朗)司徒のほか、鍾(繇)太傳・華(歆)太尉・曹(仁)司馬・陳(羣)司空・曹(真)大将軍・司馬(懿)驃騎。「輔臣論」や曹植の晩年の表を読むと思うのだが、一体、こういった政治・軍事情報は、誰が曹植に教えていたのだろうか。片田舎で監視されながら、親戚との文通もままならず、幽閉同然に暮らしていたにしては情報を知りすぎているように思うのだが・・・。

 【夏侯威(かこうい)】字:季権(きけん)? - ? 

〔登場作品〕 :「離友」

魏の名将夏侯淵(~219)の子。男気のある人物で、荊州・兗州の刺史を歴任した。夏侯威に限らず、夏侯淵には見所のある優秀な息子が多い。曹植は『離友』の序で、夏侯威を「少(わか)くして成人の風あり」と高く評価し、「郷人(=同郷の人)」である彼との別れを惜しんだ。曹植の祖父曹嵩(すう)は、夏侯氏から曹氏へ養子に入った人物だから、二人は姓こそ異なるが、血は同族ということになる。

 【司馬懿(しばい)】字:仲達(ちゅうたつ) 179 - 251 

〔登場作品〕 :「與司馬仲達書」「輔臣論」

のち追号されて晋の宣帝という。一般にタヌキ親父的なイメージで語られるが、曹植の目にもそう映ったらしく、 『司馬仲達に与うる書』での曹植の語り口は、どこかよそよそしい。『輔臣論』では、すでに魏の重臣であった司馬懿を「有能な軍人」として描いている。

 【荀彧(じゅんいく)】字:文若(ぶんじゃく) 163 - 212 

〔登場作品〕 :「光禄大夫荀候誄

早い時機から曹操陣営に身を投じた魏の名参謀。ルックスも頭脳も家柄も超一級、穏やかで高潔な人物だった。身内以外で曹植による誄(=哀悼文)が残されているのは、荀彧と王粲だけで、息子の荀惲が曹植と仲が良かったことも考えあわせると、たいへん曹植に近い人物だったように思う。

 【諸葛亮(しょかつりょう)】字:孔明(こうめい) 181 - 234 

〔登場作品〕 : 「求自試表」

蜀漢の劉備に仕えた天才軍師。さすがに敵将だけあって、曹植の作品の中では、「権(=孫権)を禽(とりこ)にし、亮(=諸葛亮)を馘(くびき)る」と穏やかでない登場をしている。それにしても、すでに「孫権と劉禅」ではなく「孫権と諸葛亮」を同等の存在として並べっちゃってるんですけど・・・。一方、諸葛亮が後漢の光武帝について語った文章の中で、曹植の言葉として「将則難比於韓周、謀臣則不敵於良平」の一文が引かれている。面識があったとは思えないが、お互いに多少意識していたらしい。

 【曹叡(そうえい)】字:元仲(げんちゅう)204 -239 

〔登場作品〕 : 「謝明帝賜食表」「諌伐遼東表」ほか多数

魏の三代皇帝・明帝。兄曹丕の子、母は甄氏、曹植の甥にあたる。文帝の時代は、ひたすら平身低頭、泰平を賛美することに終始した曹植だが、この甥っ子にはちょこちょこ意見している。『三国志』は最後まで曹植が半ば幽閉されたまま生涯を閉じたように描いているが、曹植の上表の類を読んでいると、明帝の時代になって諸侯への扱いは徐々に好転していったようである。晩年の明帝は多少の批判をあびているが、曹植の存命中はとりあえず名君だった。

 【曹志(そうし)】字:允恭(いんきょう) ? - 288 

〔登場作品〕 : 「封二子為公謝恩章」

曹植の末子。『封二子為公謝恩章』により、曹志には兄がいたことがわかるが、彼の方が曹植の後を継いだ。曹志は母の死に遭い、悲しみのあまり病いにかかり、その後亡くなったとある。曹志の母(つまり曹植の奥さん)の出自についてはよくわからない。

 【曹彰(そうしょう)】字:子文(しぶん) ? - 223 

〔登場作品〕 : 「任城王誄」「贈白馬王彪」「求自試表」

曹植のちい兄ちゃん。母は曹丕や曹植と同じ卞夫人。この人は本当に正史そのまんまの人だったらしく、『任城王誄』にもほぼ同様の趣旨の表現が見える。

 【曹操(そうそう)】字:孟徳(もうとく) 155 - 220 

〔登場作品〕 : 「武帝誄」ほか多数

「非常の人、超世の傑」と陳寿に評された曹植パパ。曹操は『孫子』に注釈をつけた人物として知られ、その軍略は、息子にも「兵を交えること神の若し(『武帝誄』)」「行軍用兵の勢、神妙と謂う可し(『求自試表』)」と絶賛された。『請祭先王表』からは、曹操の好物が「鰒魚(ふくぎょ。トコブシ、アワビ系の貝)」であることが判明。また、宝刀や名馬や鞍や鎧を曹植にプレゼントする(『寶刀賦』『獻文帝馬表』『上銀鞍表』『上先帝賜鎧表』)という、意外に親バカな一面も。

 【曹騰(そうとう)】字:季興(きこう) ? - ? 

〔登場作品〕 :「九華扇賦」

曹植の曾祖父。作品の中では「吾先君常侍」と呼ばれている。後漢の順帝・桓帝に重用され、権力を握り財を成した。しかし曹騰は宦官であったため、子を作る能力がなく、曹植の祖父曹嵩は、夏侯氏から迎えられた養子である。

 【曹丕(そうひ)】字:子桓(しかん) 187 - 226 

〔登場作品〕 : 「公讌」「侍太子坐」「黄初六年令」「文帝誄」ほか多数

曹植の大きい兄ちゃん。曹丕と曹植は後継争いをしたため険悪な雰囲気で語られていて、『文帝誄』などはあまり出来がよくないなどと言われたりもするが、個人的にはそんなことはないと思う。曹丕と言えば、名品・珍品などのコレクターで有名だが、曹植は自分の持っていた名馬などを、皇帝となった兄にせっせと献上している。服従の姿勢を見せるためだと思うが、プレゼント戦略は、やはり曹丕には効果的な作戦だったのだろうか。一方で、黄初年間の曹植は、孤独な兄の身を案じているようにも見える。曹丕が早死にしたことも考えると、この人にとって皇帝の座は、あまり居心地の良いものではなかったのだろう。『黄初六年令』によると、文帝は死の約半年前に曹植の封地を訪れ、数年ぶりに顔を合わせた弟の前で泣いたという。

 【臧覇(そうは)】字:宣高(せんこう)? - ? 

〔登場作品〕 :「請祭先王表」

長年に渡り青州・徐州を任された勇敢な武将。『請祭先王表』に、「徐州臧覇」と登場する。曹植の作品にこういう生粋の武人の名前が出てくるとは思わなかったが、曹植が臨淄侯であったため知り合う機会があったのだろう(臨淄は青州の州都)。これは220年に書かれたものだが、『三国志』によれば、この時期の臧覇は「都督青州諸軍事」と記されている。「徐州刺史」と兼任だったのだろう。

 【孫権(そんけん)】字:仲謀(ちゅうぼう) 182 - 252 

〔登場作品〕 :「求自試表」

呉の初代皇帝。兄孫策の不慮の死により、18歳の若さで江南の豪族を束ねる地位を継承した。蜀に比べ、呉は『雑詩6首』の「其の5」や『朔風』、『東征賦』や『與司馬仲達書』などで敵国の筆頭に上げられ、曹植には「呉 討つべし」という作品が多い。赤壁ショックのせいだろか…

 【陳琳(ちんりん)】字:孔璋(こうしょう)? - 217 

〔登場作品〕 :「與陳琳書」「與楊徳祖書

陳琳はかつて『袁紹の為に豫州に檄す』という檄文で、曹操およびその祖先を罵倒した人物であるから、一説に曹植は陳琳を嫌ったとされる。しかし、曹植が陳琳にあてた手紙も残っているし、陳琳からの返事によると、曹植は自分の『神亀賦』を陳琳に提示して、評価を仰いだりしている。

 【丁儀(ていぎ)】字:正礼(せいれい) ? - 220 

〔登場作品〕 : 「贈丁儀」「贈丁儀・王粲

曹植と同郷人で、父親同士が幼なじみの丁兄弟の兄の方。曹植を曹操の後継者にするべく立ち回った。丁儀は文人のイメージがあるが、現在も残る彼の作品は政治的な議論で、文人であると同時に政策通の能吏であったと思われる。210年代、丁儀は東曹による人事の方針に抵抗した。それに対し、曹丕は東曹グループを尊重し、権力を安定させようと計った。この政治感覚の違いが、不仲の原因ではないかと思う。曹植は、のちに東曹掾となった邢顒を平原侯時代に軽く扱ったりしていて、おそらく丁儀と考えが近かったのだろう。曹植が丁儀に贈った詩の内容に政治と関わる描写が多いのも、二人が文人仲間であったと同時に政治思想的な同志だったことを示しているように思う。→おまけ:勝手に「丁儀伝」

 【卞氏(べんし)】160 - 230? 

〔登場作品〕 : 「転封東阿王謝表」「卞太后誄」

曹植ママ。彼が大変なマザコ…もとい、母親想いであったのは、『卞太后誄』からも伝わってくる。曹植は母に対する愛をことさら強調したりはしていないが、曹植DNAをきっちり引き継いだ息子の曹志の人生と比べてみれば、曹植の死は、おそらく卞夫人が亡くなったショックに起因していることは容易に推測できる。曹植にとって母の死は、どんな手段を使っても生き長らえて孝を尽くさなければならないという呪縛から解放された瞬間でもあった。その時期を境に、曹植の作品は身を守る手段から、むしろ攻撃的なものに変化していく。

 【楊脩(ようしゅう)】字:徳祖(とくそ) 175 - 219 

〔登場作品〕 : 「柳頌序」「與楊徳祖書

曹植と楊脩は、親しい手紙のやり取りで知られるが、『柳頌序』には「友人楊徳祖」と記され、逆に楊脩の『孔雀賦(芸文91)』『出征賦(芸文59)』には曹植が登場する。他人の作品に曹植が登場するのは珍しく、特に『孔雀賦』は二人の関係性や曹植の人間性を端的に記録していて興味深い。


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