三曹+α | 曹操そうそう 【字】猛徳もうとく / 155~220 1/23 |
【曹操の作品】 ●短歌行
沛国譙の人。後漢末の混乱に巡り合わせ、その圧倒的な軍略で、他の勢力を降していった。ほぼ天下を治めた曹操は最後まで帝位に即かなかったが、実質的に魏王朝の開祖であり、魏の文帝(曹丕)によって武帝と追謚された。文武に優れた名将で、詩人として多くの作品を残した。作品はいずれも四言か五言の楽府に属するため、言葉は平易でわかりやすく、表現は力強い。また、文人たちの擁護者となって建安文壇を形成した。曹操は不世出の英雄らしい度量の広さと大胆さ、柔軟性と先見の明を備え、一方で、政治的運営では、猜疑心が強く権謀術数に長けた細心な部分も持ち合わせていた。また、家柄より才能重視の徹底した能力主義で、合理的な人材登用を計った。著作に『孫子略解』『兵書接要』『兵書要略』。現在伝わる詩は30数首。 |
三曹+α | 曹丕そうひ 【字】子桓しかん / 187~226 5/17 |
【曹丕の作品】 ●雑詩(2首)其の一 ●於清河見輓船士新婚與妻別 ●典論 論文
魏の文帝。曹丕には曹昂(母は劉氏)という異母兄がいたが、197年に戦死した。以後、曹丕が曹操の後継候補No.1として、人生を歩むことになったが、父の心は神童と名高かった異母弟の曹冲や文学に卓越した才能をみせた同母弟の曹植に傾いたこともあった。211年、五官中郎将兼副丞相となり、217年、正式な魏の太子に選ばれた。220年、父の後を継いで丞相・魏王となり、後漢より禅譲を受けて皇帝となった。都を洛陽に定め、在位6年でこの世を去る。文武両道、政治手腕に優れ、帝王たる資質を持っていたが、なぜか父からの評価は低かった。主に五言詩で評した『詩品』では、曹植より格下の「中品」に位置づけられている。しかし、曹丕の楽府は清新で、論は理路整然としているとして、『文心雕龍』の劉勰 は彼の才能を高く評価した。曹丕は自身も文人として優れていたが、王粲ら七子が相次いで亡くなった後に、それぞれの作品を集めて自ら序文をつけた全集を作ったり、文学全体のあり方について論文で述べたり、この時代の文化に関して別の側面での功績も大きい。神仙に関する逸話を集めた『列異伝』の編者とも言われている。 |
三曹+α | 曹植そうしょく 【字】子建しけん / 192~232 |
<<< 曹植の作品紹介ページ(『私家版 曹子建集』作品リスト)へ
武帝(曹操)の第三子、文帝(曹丕)の同母弟。中国文学史上、黄金期の一つである建安文学の頂点に位置する。文才豊な父や兄をも凌ぐ才能をもち、七子をはじめとした当時の名だたる文人が彼の教育係であったため、建安文壇の実践的集大成者となった。幼い頃から才能を発揮し、10歳あまりで古典を暗誦すること数十万字、よく文章を綴った。父の期待を受けて太子に擬せられ、実の兄曹丕と王位継承を争ったが、結局敗れ、そのせいで武帝の死後、即位した兄から疎まれることになる。常に朝廷から派遣された監視役の目が光る状態で、封地に留められたまま生涯を閉じた。享年41歳。最後の封地が「陳」で、「思」と謚されたため、陳思王と呼ばれる。 |
三曹+α | 曹叡そうえい 【字】元仲げんちゅう / 205~239 |
建安七子 | 孔融こうゆう 【字】文挙ぶんきょ / 153~208 |
【孔融の作品】 ●臨終詩
魯国の人。孔子の20代目の孫。幼い頃から才気煥発、世に名を知られていた。13歳で父を亡くしたが、その後も官職に恵まれ、後漢の清流派官僚として宦官の汚職を摘発するなど辣腕を発揮した。しかし、時代が混沌としてくると、その大きすぎる自尊心と自らの能力の限界の間で迷走を続けた。結局、太中大夫の任にあった建安13年(208年)8月、曹操の命により不敬罪に問われ処刑された。孔融の作品は高い風格と独特の緊張感を備えており、曹丕は「彼の気はまことに卓越している(『典論』)」と評し、劉禎もまた「孔融の文は卓絶で、まことに非凡の気があり、その天分はとても他の作家が努力しても至りえぬものがある(『文心雕竜 第28 風骨』)」と賞賛した。曹丕は父によって誅殺されたその人の作品を愛し、孔融の遺稿に懸賞をかけて集めさせた。しかし、かえって懸賞目当ての偽作も多く紛れ込んでしまい、現在、孔融の作品として伝えられているものには、本当に自身の手によるものか疑問視されている作品も多い。 |
建安七子 | 阮瑀げんう 【字】元瑜げんゆ / ?~212 |
建安七子 | 陳琳ちんりん 【字】孔璋こうしょう / ?~217 |
建安七子 | 王粲おうさん 【字】仲宣ちゅうせん / 177~217 |
【 王粲の作品】 ●雑詩(日暮遊西園)
山陽高平の人。一族は代々豪族で、曽祖父の王龔、祖父の王暢はともに後漢の三公となった。17歳の時、後漢の大学者蔡邕(さいよう)に認められ、「これ王公の孫なり、奇才あり。われ如かざるなり。吾家の書籍文章ことどこく将にこれに与ふべし」と蔵書を譲り受けた。17歳で黄門侍郎に任ぜられたが任官せず、世の乱れを避けて荊州の劉表を頼った。しかし王粲は風采が上がらかったので、重く用いられなかった。15年後、荊州平定に赴いた曹操に召されて丞相掾となる。ついで軍謀祭酒となり、関内候の爵位を賜わった。のち侍中。217年、孫権征伐に従軍した際、他の建安の七子とともに疫病で亡くなった。享年41歳。記憶力に優れ、一度見た石碑を一字違わず暗誦した話や、ぐちゃぐちゃになった碁盤の石を元に戻した話などが残っている。博学多才、算術から儀礼に関することまで詳しい一流の知識人だった。文人としても詩賦に巧みで、『詩品』では、曹植・劉楨と並んで上品に置かれる。『文心雕竜』「第47 才略」では、「王粲は才華溢(あふ)れ、敏捷にしてしかも周密であり、その文学は多くの長所を兼ね備えて、文辞にも瑕(きず)が少ない。その詩や賦をさして論ずれば、建安七子の中の最高であろう」と評される。また弁舌もあざやかで、彼にかなうものはいなかった。『三国志』の注によると彼の欠点は「戇(馬鹿正直なところ)」であったとされ、「杜襲伝」には同僚の杜襲が曹操に重く用いられたことに露骨に嫉妬した話が残っている。彼の作品には、その純粋で裏表のない人柄がよく表れている。 王粲には二人の息子がいたが、219年、魏諷のクーデター計画に荷担したため殺された。その時、曹操は遠征中で、後からその知らせを受けて、「もしわしがそこにいたなら、仲宣の後継ぎがなくなるようなことはさせなかったのに(孤若在、不使仲宣無後)」と嘆いたという。王粲が蔡邕から譲り受けた蔵書は、このときすべて没収されたが、文帝の世になって、同族の王業に与えられた。 |
建安七子 | 応瑒おうとう 【字】徳璉とくれん / ?~217 |
建安七子 | 徐幹じょかん 【字】偉長いちょう / ?~217 |
【徐幹の作品】 ●室思
北海(ほっかい)国の人。曹操に召され司空軍謀祭酒、ついで曹丕に仕えて五官将文学、『晋書』「鄭袤(ていぼう)伝」によれば、のちに臨淄侯(曹植)の文学にもなっている。徐幹は個性派ぞろいの文壇の中、異色なほど礼儀正しくまっとうな人物だったらしく、曹丕は、「恬淡(てんたん)寡慾、彬彬たる君子(『呉質に与うる書』)」とその人柄を称えた。著書に思想書の『中論』2巻。弟子が寄せた『中論』の序で、徐幹は建安23年(218年)春2月に疫病で亡くなったことになっているが、建安の七子が病に倒れたのは217年春のことで、状況から没年は217年とした。『詩品』では下品。建安七子の中では劉楨と特に親しく、互いの想いをつづった詩を贈りあった。 |
建安七子 | 劉楨りゅうてい 【字】公幹こうかん / ?~217 |
その他 | 楊脩ようしゅう 【字】徳祖とくそ / 190(※一説に175)~219 |
【楊脩の作品】 ●答臨淄侯牋 ●神女賦
弘農華陰の人。父から四代に遡り太尉を輩出した後漢の名門出身。代々学問を教える家柄で、堅実な家風も人々から尊敬を集めていた。楊脩も教養人として一流であった上に、官僚としても有能であった。主簿として曹操に仕えたが、曹植派の筆頭であった楊脩が後の禍になるのをおそれた曹操に誅殺された。『新唐書』に「楊脩集二卷」とあるが、現存する作品は少なく、数点の賦や散文が残るのみである。『文心雕竜』「第47 才略」によると、楊脩は路粹と並んで「筆記」に巧みであったとされる。 |
その他 | 丁儀ていぎ 【字】正礼せいれい / ?~220 |
【丁儀の作品】 ●周成漢昭論
沛国の人。父の丁沖は曹操の幼なじみで後漢の司隸校尉。弟の丁廙とともに曹操に仕え、西曹掾・尚書となった。曹植を後継者にするべく画策したため、曹操の死後、曹丕に殺された。弟と共に文人としても知られ、『隋書』「経籍志」に「後漢尚書丁儀集一巻」とある。『文心雕竜』「第47 才略」によると、丁儀は邯鄲淳と並んで議論文に定評があり、現存する作品には詩や楽府はなく、賦・論が残る。→おまけ「勝手に丁儀伝」 |
その他 | 邯鄲淳(一名は竺)かんたんじゅん 【字】子叔(あるいは子淑)ししゅく / 132頃~221 |
【邯鄲淳の作品】 ●贈呉處玄詩
潁川の人。博学多才、儒者・書家・文人として知られた。若い頃、洛陽・長安に遊学し、扶風の曹喜に書を学んだ。初平年間、荊州に移り住み、曹操が荊州を平定すると招かれた。建安年間には曹植に仕え、その才能を「天人」と讃えたため、曹丕の恨みを買った。黄初年間の初めに博士給事中となり、まもなく没した。中国で最も古い笑話集である『笑林』の作者としても知られる。 |
その他 | 繁欽は(ん)きん 【字】休伯きゅうはく / ?~218 |
その他 | 何晏かあん 【字】平叔へいしゅく / 190~249 |
その他 | 応璩おうきょ 【字】休璉きゅうれん / 190~252 |
その他 | 蔡琰さいえん 【字】文姫ぶんき / 162~239 |
その他 | 呉質ごしつ 【字】季重きじゅう / 177~230 |