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『洛神賦』~女神モデルを巡る一考察~





 『洛神賦』は曹植作品の中でもとりわけ名作である。にもかかわらず、過去において、作品の素晴らしさより、ともすれば誰が女神のモデルかということが熱心に議論されてきた。ある意味不幸な作品である。だから、ここでは「モデルが誰か」問題を論じるのではなく、その作品の魅力について語ってみよう!……というわけではなくて、やはり「女神モデルが誰か」という不毛な議論に突入することになる。すみません。


ひととおり、基礎知識は本編解説で確認していただくとして→『洛神賦』を読む  


 そもそも、なぜ「モデルが誰か」が問題になるのかというと、曹植の描き出す女神は非常に美しく、何とも言えないリアリティが漂っているからである。だからこそ「これには誰か現実のモデルがいるはずだ!」という憶測が生まれ、「甄氏説」が登場し、さらにそれを否定する形で「文帝説」が出てきたのではないかと思う。
 『洛神賦』の序によると、曹植は宋玉の『神女賦』に影響を受けてこの賦を作ったことになっている。また王粲・陳琳・楊脩にも『神女賦』が残っており、彼らも同様に宋玉の作品に影響を受けて作ったと思われる。しかし、曹植が『洛神賦』を作ったとき、すでに王粲らは亡くなっており、曹植はひとり別のタイミングでこの賦を作ったようだ。
 ところで、宋玉『神女賦』に登場する女神は、「洛水の女神」ではない。王粲・陳琳・楊脩の『神女賦』に登場する女神は、作品が断片しか残っていないため特定不能だが、少なくとも「洛水の女神」であると思われるような記述はない。ならば、なぜ曹植は「洛水の女神」を邂逅相手に選んだのか。


 例えば「文帝説」なら、魏は洛陽に都を作ったのだし、洛水にゆかりの女神を選んでも不思議はない。一方、「甄氏説」では、洛水に関連のない甄氏がモデルというのがどうも納得しがたい。甄氏は魏が洛陽を都とした後も、洛陽には連れて来られず、最後は鄴で死を迎えている。
 「文帝説」だと内容も説明しやすい。曹植と曹丕は、兄弟であっても簡単に会えない状況にあった。しかも、曹丕やその周辺の人物から、後継者の座を争った曹植が猜疑の目で見られているのは確実だった。そこで、女神への思慕に託し、兄へ変わらぬ忠誠を誓ったのだ、と。
 ただ一つ疑問なのは、曹植→女神の思慕は曹植→文帝の忠誠と重ねても構わないだろうが、女神→曹植も、同様に深い思慕を抱いている点である。要するに、女神と曹植は相思相愛なのである。理由がどうであれ、身内を迫害した文帝と曹植が相思相愛と言えるだろうか?
 いや、相思相愛は曹植の願望だという解釈もできるし、曹丕は曹植を庇えるだけ庇ったのだという美しい兄弟愛と解釈すれば、それが成り立たなくもない。通常、後継争いに敗れた場合、「殺される」か「亡命する」の二者択一しかないのだが、結局、曹丕は曹植を殺さず、曹植も亡命のお誘い(=蜀が出した227年3月の詔など)はあっても、それに乗ろうとはしなかった。
 ただ、そうだとしても、兄の弟に対する気持ちは、「たとえ、鬼神の住む世界に隠れる身となっても、いつまでも君を想っています」という境地ではない。さらに言えば、この一文からも窺えるように、もしモデルがいるなら、やはりその人はすでに死んでいる方が納得できるのである。「甄氏説」が優勢だったのも、甄氏がこの賦の製作時点ですでに悲劇的な死を迎えていたという点が、よりストーリーと寄り添う形であったことが大きいのではないだろうか。そういう点からも、賦の制作当時、まだ存命だった文帝ではモデルとして弱いのではないかと思う。
 また、女神=甄氏と考えた場合であれば、その真意を隠すため、宓妃への恋心に置き換える必要があるだろうが、文帝に対する忠誠なら、ストレートに伝えたって何の問題もない。実際、曹植は兄に対して、服従する旨の上奏や献詩を行っていて、わざわざ宓妃を持ち出し、むしろ誤解を受けるかもしれないような曖昧な描写をする必要はない。
 さらに、『洛神賦』には、女神が自分を欺くのではないかと疑う描写がある。私の直感でしかないけれど、曹植という人は、兄弟に対してそういう描き方をする人ではないように思う。曹植の身内に対する愛情は絶対的なもので、だからこそ美しい。そういうちょっと浮世離れしてるんじゃないかと思わせるほどの感覚が、曹植の作品を普通の人の作品とは別次元のものにしているのだと思う。


 というわけで、私はここまで、現在よく知られている2説を否定してきた。どちらにもこれといった決定打がなく、以前からなんとなく「どちらも違うのでは?」という気持ちがあった。しかし、『洛神賦』には、誰かモデルがいるのではないかと思わせる何かがある。そこで、私は別のモデルがいるのではないかと考えた。洛水に関係があり、曹植と相思相愛で、すでに死んだ人―――というと、私には楊脩しか浮かんでこなかった。


 楊脩は弘農華陰の人である。華陰は華山の北という意味で、長安と洛陽の間に位置する。洛水もまた華山を源流とし、洛陽付近で黄河と合流する川であり、弘農華陰出身の楊脩は、当然洛水を訪れたことがあったと思われる。しかし、彼の一族は後漢の高官を多く出しているため、生活拠点は弘農華陰ではなく首都洛陽であった可能性が高い。楊脩が洛陽で暮らしていた場合、それこそ洛水は常に目の前にある身近な存在ということになる。
 『洛神賦』で、曹植は「陽林」でくつろいでいる時、洛水に女神を見た。「陽林」は「楊林」と作るテキストもあり、李善注に「陽林,一作楊林,地名,生多楊,因名之。」とあるように、そこは文字通りやなぎの群生地であった。そして、楊はもちろん楊脩の姓でもある。だから、女神=楊脩と考えた場合、たとえば陽林=楊林=ヤナギの林=楊氏一族の墓地という隠喩で、曹植はそこで楊脩の亡霊に会ったという物語を連想することもできるかもしれない。
 楊氏一族の墓地は、おそらく洛陽の北東に位置する芒山にあった。後漢~三国時代にかけて、多くの皇族や大臣たちがこの山に葬られた。楊脩の家も後漢の高官を輩出する家柄であるため、芒山に代々に葬られていたと思われる。
 芒山は地形的に言うと、黄河とその支流である洛河(=洛水)に挟まれた場所にあり、山腹から洛水を眺めることができる。まさに曹植が描写する陽林にぴったりのロケーションである。現在、楊脩の墓は華陰市と勉県にあるが、『三国志集解』には『太平寰宇記』巻三からの引用で、「洛陽芒山有楊修冢(洛陽の芒山に楊修の墓がある)」と書かれており、楊脩の墓もまた洛水を望む芒山にあったとされている。つまり、楊脩の墓参り(=陽林)に行った曹植が、洛水を眺めているとき、楊脩の亡霊(=女神)に会うという連想が可能ではないだろうか。


 しかし、女神=楊脩の場合、ひとつ問題がある。それは『洛神賦』にしばしば登場する「脩」の文字である。
 この文字が『洛神賦』には4回出てくる。「脩」は楊脩の諱であるから、女神=楊脩である場合、その諱を連呼するのは失礼にあたるから使用を避けるのではないか…という疑問がわいてくる。
 実は、曹植が『洛神賦』を制作するきっかけとしている宋玉『神女賦』には、「脩」の字が使われていない。一方、曹植の『洛神賦』は、作品中に「脩」の字を多用している。そのほとんどは「脩=長い」という意味で使っているが、一か所、「佳人之信脩(佳人のなんとすばらしいこと)」という使い方をしている。いくら人柄を讃える文章であるとはいえ、諱そのものはまずい気がする。
 ただ、楊脩の諱は、「脩」と「修」の2説がある。同様に、曹植の作った『洛神賦』も「脩」の文字で伝わっているものと「修」と書かれたものがあり、曹植がどちらの文字を使っていたか定かではない。諸橋大漢和は、「脩の本義はほじし(=干し肉)、修の本義はおさめととのえるで、二者、異なっているが、經傳には両字通用して区別しない。」とあり、つまり「修」=「脩」であり、置き換え可能な文字である。だから、曹植は諱を連呼する必要はなく、ヨウシュウの諱が「修」であれば「脩」の字で、「脩」であれば「修」の文字で、とりあえず失礼を避けることができる。曹植はその逃げ道を使って、あえてこの「脩(または修)」の文字を繰り返し使い、本当の制作の意図をこの作品に刻み込んだのではないだろうか。


 『洛神賦』の中で、人間である曹植と、神である洛神は、決して結ばれない運命にあった。それは曹植と楊脩に当てはめると、この時点ですでに死者と生者であったという意味でもそうだし、後漢から帝位を奪おうとする曹操の息子である曹植と、四世太尉を輩出した後漢の名門出身の楊脩の立場にも重なる。楊脩の父・楊彪は、かつて政治的に曹操と対立し、投獄され、いつ殺されてもおかしくない状態になったことがある。なんとか殺されずにすんだが、すでに後漢の命運が尽きたと判断した楊彪は、曹操に仕えることを潔しとせず、政界から身を引いた。また、かつて曹操も、楊彪に殺されるのではないかという危惧をいだいた事があり、親同士は「殺るか殺られるか」の殺伐とした関係だったことがわかる。
 楊脩がなぜ曹植と親しく付き合ったのか、その真意は分からないが、少なくとも曹植の方は、楊脩という人をかけがえのない大切な人だと思っていた。その気分は『與楊徳祖書』で十分語られているし、『柳頌序』で曹植は楊脩のことを「友人楊徳祖」と記し、彼は無実の罪をかけられていると思っていたようである。これは「序」のみで本文が伝わらないが、蘇彦によると、その本文は「辞義慷慨、旨在其中」(芸文89)であったとされる。
※『藝文類聚』巻89「木部下 女貞」では、タイトルが『楊柳頌』となっている。『楊柳頌』と『柳頌』の2作品があったと考えることも可能だが、おそらく同じ作品ではないかと思う。


 楊脩は、曹丕が世継ぎに決まった後、曹操によって殺された。曹操の目に、曹植と楊脩の関係は、今後のために危険だと映っていたのだろうか。それでも、曹植派として族滅させられた丁兄弟とは違って、楊脩の一族や子供は巻き添えを食わなかった。それどころか、曹操は、申し訳ないが貴方の息子を殺すしかなかったという言い訳めいた手紙(『與太尉楊彪書』)まで楊彪(楊脩の父)に書き送っている。遺体も、おそらく丁重に楊彪の元へ送り届けられたことだろう。そして、曹植が『洛神賦』を作った時期では、すでに芒山に葬られていたと思われる。
 洛水の女神は「永遠に君を想う」と伝えて、姿を隠してしまう。楊脩は「自分は死ぬのが遅かったと思っている」という言葉を残し、曹操に処刑され、曹植の目の前から姿を消した。


 曹植にとって、楊脩はすでに「住む世界を異にして」いて、再び会うことは叶わない存在になっていた。楊脩が曹植とつきあい続けたのは、何らかの目的があったのか、純粋な友情からなのかはわからない。また「死ぬのが遅かった」という言葉の真意もよくわからない。しかし、最後は罪に問われ、父に処刑されるという形であった以上、曹植は楊脩のために誄を書くことも許されなかっただろう。だから、誄は書けないけれど、人にはそれとはっきりわからない形で、楊脩に捧げる文章を作りたい、そう思って、曹植は『洛神賦』を作ったのではないだろうか。
 また、女神=楊脩であるなら、『洛神賦』は単なる誄以上の意味があったのではないかと思う。曹植は、『柳頌序』でも書いていたように、楊脩が冤罪で殺されたのだと理解していた。それなら、この『洛神賦』は、ただ楊脩への哀悼文であるだけではなく、当時の権力を握っている人々に対する批判の意味もあっただろう。だからこそ、曹植はモデルを誰とも明かさず、口にすることが許されない公への不満を、女神への思慕という甘いベールで包み、今は亡き楊脩のため、天に訴えたのではないだろうか。


 古来、洛水の女神へ賛辞は、美しい嫂(あによめ)へ捧げられたのではないかと疑われてきた。しかし、仮に絶世の美女・甄氏を彷彿とさせる美女の鮮やかな描写が、「本当の目的」を曇らせるための修辞だとしたら、人々は曹植の華麗な詞藻に躍らされていたことになる。 
 女神が消えた後、『洛神賦』の主人公は再び女神の姿を探す。しかし、再会の願いは叶わず、進むことも戻ることも出来ず、最後に立ち尽くし、この物語は終わっていく。曹植はこの最後の段を、宋玉の『神女の賦』と似た表現や展開を使いながら、より丁寧に描いている。誰かを失うその悲しみの表現は、「物語の中の話」と済ませるにはあまりにリアルでせつない。まさにこのリアルな感情こそが、『洛神賦』の魅力であり、女神モデルを多くの人が探さずにはいられなかった理由でもある。もちろん『洛神賦』は作品として美しく、そこに寓意などなくても十二分に成立している。それでも、これからも女神モデルについて考える人は後を絶たないのだろう。

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