『丁儀・王粲に贈る』


中 歡 王 丁 不 君 全 權 四 皇 承 員 佳 壯 涇 山 驅 從
和 怨 子 生 能 子 國 家 海 佐 露 闕 麗 哉 渭 岑 馬 軍
誠 非 歡 怨 歌 在 爲 雖 無 揚 概 出 殊 帝 揚 高 過 度
可 貞 自 在 德 末 令 愛 交 天 泰 浮 百 王 濁 無 西 函
經 則 營 朝 聲 位 名 勝 兵 惠 清 雲 城 居 清 極 京 谷



從軍度函谷 軍に従いて函谷を度り
驅馬過西京 馬を駆りて西京を過ぐ
山岑高無極 山岑 高くして極まり無く
涇渭揚濁清 涇・渭 濁と清を揚ぐ
壯哉帝王居 壮なる哉 帝王の居
佳麗殊百城 佳麗なること百城に殊なり
員闕出浮雲 員闕 浮雲より出で
承露概泰清 承露 泰清に概(いた)る
皇佐揚天惠 皇佐 天恵を揚げ
四海無交兵 四海 兵を交うる無し
權家雖愛勝 権家 勝ちを愛すと雖ども
全國爲令名 国を全うするを令名と為す
君子在末位 君子 末位に在れば
不能歌德聲 德声を歌うこと能わず
丁生怨在朝 丁生 怨みて朝に在り
王子歡自營 王子 歓びて自ら営む
歡怨非貞則 歓と怨とは貞則に非ず
中和誠可經 中和は誠に経(のり)とす可し
行軍に従って函谷関を渡り
馬を走らせて長安を通過する
険しい山々は高く連なり
ここは濁った涇水(けいすい)と清んだ渭水(いすい)がぶつかりあう所
壮大なるかな かつての帝王の居城
その佳麗さたるや他の多くの城の比ではない
円い楼台は浮雲より高くそびえ
承露盤は天空に届かんばかり
丞相の地位にある我が父は天子の恩恵を広く行渡らせ
天下には合戦の起こることもない
兵法家は勝利にこだわるものだが
戦わずして敵国を降伏させることができれば賞賛されるべき名誉と言える
君たちはまだ高い位が与えられていないから
この徳政を賞賛することは出来ない
だから丁先生は公の朝廷にあって喜ばす
王先生は自分で楽しみを見出しているようだが
勝手に嬉しがったり不満がったりするのは正しい原則に反すること
天命に合致する中和の精神こそ 至高の道と言うべきだ
【『丁儀・王粲に贈る』】一篇の詩を複数の人に贈答詩として贈るというパターンは、その相手が兄弟だったり、自分の息子たちだったりと、贈られる相手側同士に親しい関係があることが多い。とすれば、丁儀と王粲は何らかの交友関係があったのだろうか。この作品の制作年代については、曹植がいつ何の機会に函谷関を渡ったのかが問題となる。そこで、211年(馬超・韓遂征伐)説・215年(張魯征伐)説がある。211年秋7月の馬超・韓遂征伐に曹植が従軍したのは『離思賦』により明らかで、その9月には曹操軍は関中を平定、10月には安定に楊秋を包囲し、投降させた。一方、215年の従軍については明言がない。しかし、『述行賦』の内容は、曹植が張魯征伐に赴いた根拠になるであろうとする説もある。 【函谷関】関の名前。「関中」はこの函谷関より西、かつての秦の領地を指す。 【承露盤】天の恵みを受け取る皿のような形のモニュメントらしい。高さ20丈、太さ十圍、銅製(『三輔故事』)。 【君たち】原文「君子」。これは丁儀・王粲を指しているとするのが李善注だが、213年11月に王粲は侍中(秩二千石)になっており、位が低いとは言い難い。また、張魯征伐で、王粲は曹操を称える『従軍詩』を作っており、「德声を歌うこと能わず」とも合わない。また丁儀がこの時期、飛ぶ鳥も落とす勢いだったのは『三国志』「毛玠伝」が記すところである。となると215年説とは相容れない。 【自分で楽しみを見出して】原文「自營」の解釈も様々ある。王粲は従軍できて仕事に喜び勤しんでいるという意味であるとか、朝廷から外れたため、自分の趣味の世界に走って楽しんでいるの意味とか、よくわからない。  

■管理人MEMO■
 この詩については、いろいろ疑問点が多いが、過去の議論では、前半に描かれた遠征は211年の馬超・韓遂征伐のことであるとする意見が多い。なぜなら、215年当時には王粲が侍中の任にあり、「君子在末位」と言えないからである。ところで、なぜこの一句の「君子」が「丁儀・王粲」を指すのかというと、文選の李善注に「君子謂丁王也」と書いてあるからである。さらに李善は「『琴操』曰、古者君子在位、役不踰時。」と続ける。この部分は要するに、「ある程度国の重職につくようになったら、軽々しく遠征についていけないよ」という意味であろう。つまりここで言う「位」は「末位」ではなく、むしろある程度以上の地位のことではないのかと考える。となると、李善がここにこの注を立てた意味は何だろうか。「位」の注としては正しいが、「末位」の注としては相応しくないような気がする。それはおそらく、その前に「君子=丁儀・王粲」とし、彼らが従軍できなかったことの理由に整合性を持たせるための注だったのだろう。
 ところで、辞書で「君子」を調べると、まず第一に出てくるのは「徳の高い立派な人」という意味である。仮に、李善注に目をつぶって、この「君子」を「君たち(=丁儀・王粲)という二人称の敬称」ではなく、「徳の高い立派な人」という一般的な意味として、ラストの6句(「君子在末位」以下)を解釈してみよう。


君子在末位  徳の高い立派な人物であっても朝廷でしかるべき位を得ていなければ
不能歌德聲  いまの素晴らしい政治を賛歌することは出来ない
丁生怨在朝  丁先生は朝廷で立派な地位を得ているのに心楽しまず
王子歡自營  王先生は喜びをあらわに仕事に精を出しているようだが
歡怨非貞則  嬉しがったり不満がったりするのは正しい原則に反すること
中和誠可經  中和の精神こそ 至高の道と言うべきだ



 このように解釈すると、この詩を作った時点で、丁儀・王粲は「末位」ではなくむしろ立派な地位を得ていたことになり、前半で述べた関中への遠征は、王粲が侍中となった213年11月以降の遠征である215年の張魯征伐の方が相応しい気もするが、211年の馬超・韓遂征伐の時点でも、王粲はそれなりの地位にいるから、別に問題はないと思われる。
 それより問題なのは「徳の高い立派な人物であっても朝廷に位を得ていない」の部分である。私はこの部分に、納得できる地位を与えられなかった徐幹や、一時左遷の憂き目にあっていた劉禎などの文人仲間を思い浮かべる。曹植がとどのつまり丁儀や王粲に言いたかったことは、「君たちは幸せな立場にいるのだから、軽々しく感情を表に出すのは少し控えなさい」というお説教と、裏返せば十分な地位を得られていない者に対する気遣いではないか。
   これで解釈としては(個人的には)スッキリしたのだが、ただ、なぜ丁儀が「怨」であったり王粲が「歓」であったのかはよく分からない。要するに、丁儀はいまの地位や政治のあり方に不満があったが、王粲は自分の地位や現在の政治状況にも満足していたということか。この辺りの事情は、もう少し時間をかけて考えてみます。

|戻る|

inserted by FC2 system