曹植(そうしょく)は字(あざな)を子建(しけん)といい、沛国譙(しょう)の人である。といっても、これは本貫(=父方の一族の本籍地)で、生誕地は東武陽か鄄城(ともに山東省)と推察される。
当時の歴史を綴った陳寿(233-297)の『三国志』によると、曹植は10歳あまりで『詩経』『論語』をはじめ辞・賦などの古典を暗誦すること数十万字、よく文章を綴ったという。 曹植の性格について、陳寿は「性簡易にして、威儀を治めず。輿馬服飾、華麗を尚ばず。(おおまかで細かいことにこだわらず、堅苦しいことが嫌い。乗り物や服装は、華美なものを嫌った)」と記す。曹植は自分自身に関して、「吾昔、人の心を信じて、左右に忌むこと無かりし(『黄初六年令』)」と無邪気な貴公子ぶりを告白している。
曹植は正室の子ではあったが三男であったため、本来ならまず後継者と目されることは無い立場にあった。しかし、その才能が広く知れ渡るようになると、慣習や伝統より個人の才覚を重んじる曹操は、長男である曹丕を差し置いて、三男である曹植に目を掛け、後継者に指名したいとまで考えるようになった。
この件に関して、曹植自身が後継者となることを望んでいたか、望みもしないのに欲にかられた側近が勝手に推し進めたかは諸説あって定かではない。 後継争いの際、曹植をはっきり擁立しようとしたのは丁儀・丁廙兄弟、それ以外にも曹植と親しかったり、能力を高く評価した人物に楊脩、邯鄲淳、楊俊、荀惲、孔桂などがいる。曹丕派と言われているのは、賈詡、曹真、夏侯尚、呉質、賈逵、司馬懿など。しかし、両派をはっきり色分けすることは難しい。 220年に曹操が逝去すると、後を継いだ兄とその側近たちは、かつて後継の座をめぐって対立した弟を危険視して、迫害するようになった。この時から、曹植の生活は暗転する。側近中の側近であった丁兄弟は処刑され、曹植自身は住み馴れた鄴を追われ、任地を転々と移された。王には封ぜられたが名ばかりで、常に朝廷から派遣された監国謁者(監視役)の目が光る中、行動を規制された。220年(正史は221年)には、この監国謁者の灌均に「酒に酔ったうえ乱暴をはたいた」と誣告され、処刑されかけている。この時期以降、曹植の作品は悲痛な叫びへと変っていく。
226年に兄の文帝が崩御し、その子である明帝の御代になっても、曹植ら諸侯に対する方針は大きく転換されることはなかった。 曹植には少なくとも二人の娘と、曹苗、曹志(字は允恭)の二人の息子がいたが、末子の曹志が後を継いだ。身内を迫害して自ら弱体化を招いた魏王朝は、曹植が『陳審擧表』で予期した通り、早々と「異姓の臣」である司馬氏に取って代わられた。曹志は魏の滅亡後、晋の武帝(司馬炎)に招聘され、一晩語り合ってその才能が認められた。位は散騎常侍まで登り、曹氏一族の末裔としては、最も厚遇を受けた。(曹志の伝は『晋書』巻50列伝第20にある)
明帝は景初年間に、以下の詔勅を出した。
こんな話が残っている。
また、山水詩で有名な謝霊運(385-433)は、「天下の才、一石を共にせば、曹子建は独り八斗を得、我れは一斗を得たり」と偉大な先駆者として曹植を称え、庾肩吾(487-550)は曹植の墓を通りがかったとき、「公子 独り生を憂い、邱隴 余名を擅にす(曹植は生きている間は独り生を憂たが、死して丘陵の墓地に埋もれる身となって名声を独り占めしている)」と詠いだす詩を残した。 しかし、少し違った見方をする書物もある。『詩品』の約10年前に書かれた劉勰(りゅうきょう/466?-523?)の『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』は、曹植の才能を「群才の俊(「第41 指瑕」)「筆を下すこと琳瑯なり(「第45 時序」)」と十分認めながら、「文帝(曹丕)は位 尊きを以て才を減じ、思王(曹植)をして勢 窘(きわ)まるを以て價(あたい)を益(ま)さしむ。(「第47 才略」)」と、曹植については過大評価されすぎであるという態度を示し、その作品の一部に痛烈な批判を加えている。『詩品』には、「世の中には軽薄な連中がいて、古今の大詩人である曹植・劉禎をやぼったいなどとあざ笑い」という記述があり、曹植の評価はこの時代、無批判ではなかったようである。 唐代に入ると「過去の大詩人といえば曹植」というのが一種のパターンとして定着してくる。唐の小説『遊仙窟』では、「張郎が才器、乃ち是れ曹植が天然(張さまの詩才は曹植のように生まれつきのもの)」と文才の豊かさを表現するのに使われ、詩聖 杜甫(712-770)の『韋左丞丈に贈り奉る二十二韻』では、「賦は料る 揚雄の敵なり、詩は看る 子建の親なり」と、過去の最も偉大な詩人の代名詞として使われた。 もと文集30巻が存在したが、散逸し、いまは宋以降に収集された『曹子建集』10巻が伝わる。詩賦あわせて200余篇。現在、完全な形で伝わる詩は70首ほど。賦40数篇、表37篇。『三国志』「魏書 巻19」に伝がある。 曹植の地位は、年代によって変化する。平原侯(211年)→臨淄侯(りんしこう/214年)→安郷侯(220年あるいは221年)→鄄城侯(けんじょうこう/220年あるいは221年)→鄄城王(222年)→雍丘王(223年)→東阿王(229年)→陳王(232年)。しかし、年代と合致しない呼び方を使われている場合もある。墓は東阿にある。 |
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