曹子建とは?


曹植年譜正史『三国志』に見る曹植人物索引


 曹植(そうしょく)は字(あざな)を子建(しけん)といい、沛国譙(しょう)の人である。といっても、これは本貫(=父方の一族の本籍地)で、生誕地は東武陽か鄄城(ともに山東省)と推察される。
 小説『三国志演義』では悪役として有名な曹操(魏の武帝)の息子で、曹丕(魏の文帝)の同母弟にあたる。母は卞氏。卞氏には4人の息子がおり、上から曹丕(字は子桓 / 186-226)、曹彰(字は子文 / ?-223)、曹植、曹熊(建安年間に夭折)。曹操、曹丕も文才があり、曹植とあわせて「三曹」と呼ばれる。


 当時の歴史を綴った陳寿(233-297)の『三国志』によると、曹植は10歳あまりで『詩経』『論語』をはじめ辞・賦などの古典を暗誦すること数十万字、よく文章を綴ったという。
 ある時、曹操は曹植が作ったという文章を見て、あまりの出来栄えに驚き、
「お前は誰かに代筆してもらったのか」
と尋ねたことがあった。曹植はその問いにこう答えた。
「私は口を開けばそれが論文となり、筆を下ろせばそれが文章となります。どうか目の前でお試し下さい、どうして人に頼んだりしましょうか」


 曹植の性格について、陳寿は「性簡易にして、威儀を治めず。輿馬服飾、華麗を尚ばず。(おおまかで細かいことにこだわらず、堅苦しいことが嫌い。乗り物や服装は、華美なものを嫌った)」と記す。曹植は自分自身に関して、「吾昔、人の心を信じて、左右に忌むこと無かりし(『黄初六年令』)」と無邪気な貴公子ぶりを告白している。


 曹植は正室の子ではあったが三男であったため、本来ならまず後継者と目されることは無い立場にあった。しかし、その才能が広く知れ渡るようになると、慣習や伝統より個人の才覚を重んじる曹操は、長男である曹丕を差し置いて、三男である曹植に目を掛け、後継者に指名したいとまで考えるようになった。
 その意を察した曹植の側近たちは、盛んに擁立運動をはじめ、すでに実質上、太子の地位を与えられていた兄曹丕と、王位継承を巡って激しく対立することになる。


 この件に関して、曹植自身が後継者となることを望んでいたか、望みもしないのに欲にかられた側近が勝手に推し進めたかは諸説あって定かではない。
 父の期待を受けて太子に擬せられ、曹植派が優勢だった時期もあったが、結局、長子である曹丕を廃してまで曹植を立てるのは道理に合わないし、曹植の天才肌の気質や素行は、後継者として問題があると判断され、217年、曹丕が正式に立太子される形で決着した。


 後継争いの際、曹植をはっきり擁立しようとしたのは丁儀・丁廙兄弟、それ以外にも曹植と親しかったり、能力を高く評価した人物に楊脩、邯鄲淳、楊俊、荀惲、孔桂などがいる。曹丕派と言われているのは、賈詡、曹真、夏侯尚、呉質、賈逵、司馬懿など。しかし、両派をはっきり色分けすることは難しい。   


 220年に曹操が逝去すると、後を継いだ兄とその側近たちは、かつて後継の座をめぐって対立した弟を危険視して、迫害するようになった。この時から、曹植の生活は暗転する。側近中の側近であった丁兄弟は処刑され、曹植自身は住み馴れた鄴を追われ、任地を転々と移された。王には封ぜられたが名ばかりで、常に朝廷から派遣された監国謁者(監視役)の目が光る中、行動を規制された。220年(正史は221年)には、この監国謁者の灌均に「酒に酔ったうえ乱暴をはたいた」と誣告され、処刑されかけている。この時期以降、曹植の作品は悲痛な叫びへと変っていく。


 226年に兄の文帝が崩御し、その子である明帝の御代になっても、曹植ら諸侯に対する方針は大きく転換されることはなかった。
 ある時、明帝が長安へ行幸中、「外遊先で帝が崩御され、一部の群臣が曹植を擁立した」というデマがとび、都は騒然となったことがあった。曹植はあらゆる権力から遠ざけられていたというのに、いまだ朝廷では、曹植を危険視する声が消えないでいた。
 一方、曹植は朝廷に上奏し、繰り返し激しい調子で政治に参画することを願ったが、受け入れられず、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して薨ず」と史書には記される。ときに41歳。
 最後の封地が「陳」(河南省准陽県付近)で、「思」と謚されたので「陳思王」と呼ばれる。最晩年の曹植は、病に侵され、その体は明帝が心配のあまり自ら食事を勧めるほど痩せてしまっていた。


 曹植には少なくとも二人の娘と、曹苗、曹志(字は允恭)の二人の息子がいたが、末子の曹志が後を継いだ。身内を迫害して自ら弱体化を招いた魏王朝は、曹植が『陳審擧表』で予期した通り、早々と「異姓の臣」である司馬氏に取って代わられた。曹志は魏の滅亡後、晋の武帝(司馬炎)に招聘され、一晩語り合ってその才能が認められた。位は散騎常侍まで登り、曹氏一族の末裔としては、最も厚遇を受けた。(曹志の伝は『晋書』巻50列伝第20にある)


 明帝は景初年間に、以下の詔勅を出した。
「陳思王は昔過失があったとはいえ、そののち自己の欲望に打ち勝ち、行動を慎み、以前の欠陥を補った。そのうえ、若年より死ぬまで、書籍を手から離さなかったのは、まことに至難のことである。よって、黄初年間(文帝の時代)に上奏されたもろもろの植に対する罪状書・大臣以下の臣下の議論で、尚書・秘書・中書の3つの役所と大鴻臚に所蔵されているものを取り集め、すべてそれらを廃棄せよ。植が前後にわたって書き残した賦・頌・詩・銘・雑論あわせて百余篇を収録し、副本を都の内外に所蔵せよ 」


 こんな話が残っている。
 晋の武帝(司馬炎)は曹志に、「『六代論』という論文は曹植の作品か」と尋ねたことがあった。曹志は、「先王(=曹植)は自分の作品の目録を残していますが、それには載っておりません」と答えた。「では誰が作ったのか」という武帝の問いに、「同じ一族の曹冏が作ったものです。先王の文名の高さを借りて、自分の作品を後世に伝えようとしたのでしょう」と答えている。
 このように曹植の文才に対する評価は、早い時機から高かったことがうかがえる。曹植の死からそれほど遠くない時期に『魏略』を綴った魚豢(ぎょかん)は、曹植の作品には「神有るが若し」とまで評し、曹操が後継者にしたいと心を動かされたのも仕方のないことだと述べている。


 また、山水詩で有名な謝霊運(385-433)は、「天下の才、一石を共にせば、曹子建は独り八斗を得、我れは一斗を得たり」と偉大な先駆者として曹植を称え、庾肩吾(487-550)は曹植の墓を通りがかったとき、「公子 独り生を憂い、邱隴 余名を擅にす(曹植は生きている間は独り生を憂たが、死して丘陵の墓地に埋もれる身となって名声を独り占めしている)」と詠いだす詩を残した。
 さらに、過去の詩人を格付けした『詩品』の著者の鍾嶸(しょうこう)は、「魏の陳思王植、其の源は国風に出ず。骨気は奇高、詞采は華茂なり。情は雅怨を兼ね、体は文質を被る。粲として今古に溢れ、卓爾(たくじ)として群せざる。嗟乎(ああ)、陳思の文章に於けるや、人倫の周孔有り、麟羽の龍鳳有り、音楽の琴笙有り、女工の黼黻有るに譬う。汝ら鉛を懐き、墨を吮(すす)る者をして、篇章を抱きて景慕せしめ、余暉に映じて、以って自ら燭らさしむ」と、曹植を上品の12人の筆頭に位置付け、絶賛した。
 これらを背景に「わざと寵愛を失うような行動をして、後継の座を兄に譲った。彼こそ真の君子である」といった極端な曹植びいき論も現われた。


 しかし、少し違った見方をする書物もある。『詩品』の約10年前に書かれた劉勰(りゅうきょう/466?-523?)の『文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう)』は、曹植の才能を「群才の俊(「第41 指瑕」)「筆を下すこと琳瑯なり(「第45 時序」)」と十分認めながら、「文帝(曹丕)は位 尊きを以て才を減じ、思王(曹植)をして勢 窘(きわ)まるを以て價(あたい)を益(ま)さしむ。(「第47 才略」)」と、曹植については過大評価されすぎであるという態度を示し、その作品の一部に痛烈な批判を加えている。『詩品』には、「世の中には軽薄な連中がいて、古今の大詩人である曹植・劉禎をやぼったいなどとあざ笑い」という記述があり、曹植の評価はこの時代、無批判ではなかったようである。


 唐代に入ると「過去の大詩人といえば曹植」というのが一種のパターンとして定着してくる。唐の小説『遊仙窟』では、「張郎が才器、乃ち是れ曹植が天然(張さまの詩才は曹植のように生まれつきのもの)」と文才の豊かさを表現するのに使われ、詩聖 杜甫(712-770)の『韋左丞丈に贈り奉る二十二韻』では、「賦は料る 揚雄の敵なり、詩は看る 子建の親なり」と、過去の最も偉大な詩人の代名詞として使われた。


 もと文集30巻が存在したが、散逸し、いまは宋以降に収集された『曹子建集』10巻が伝わる。詩賦あわせて200余篇。現在、完全な形で伝わる詩は70首ほど。賦40数篇、表37篇。『三国志』「魏書 巻19」に伝がある。


 曹植の地位は、年代によって変化する。平原侯(211年)→臨淄侯(りんしこう/214年)→安郷侯(220年あるいは221年)→鄄城侯(けんじょうこう/220年あるいは221年)→鄄城王(222年)→雍丘王(223年)→東阿王(229年)→陳王(232年)。しかし、年代と合致しない呼び方を使われている場合もある。墓は東阿にある。

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