『遷都の賦 序』

余初封平原、轉出臨淄、中命鄄城、遂徙雍丘、改邑浚儀、而末將適於東阿。號則六易、居實三遷。連遇瘠土、衣食不繼。 余 初め平原に封ぜられ、転じて臨淄に出で、中ごろ鄄城に命ぜられ、遂に雍丘に徙り、邑を浚儀に改め、末に将に東阿に適かんとす。号は則ち六たび易わり、居は実に三遷す。連に瘠土に遇せられ、衣食継がず。  私は初め、平原に封じられたが、次いで臨淄に転封され、それから鄄城に任命され、またすぐ雍丘に移され、さらに浚儀に領地を改め、最後に東阿へ向かうことになった。爵位は六回の変わり、居所は三たび遷った。いつもやせた土地を与えられ、衣食さえままならなかった。
【『遷都の賦 序』】この文は『遷都賦』の序文であり、もちろん『遷都賦』本編が存在したはずだが、現在残っている『遷都賦』と題せられた作品の一部は、この序文と関連があるか疑問が残る。 【爵位は六回】正史の記述を照らし合わせると、平原侯(211年)→臨淄侯(214年/5千戸。217年に5千戸加増)→鄄城侯(221年。翌年、鄄城王/2千5百戸)→雍丘王(223年/225年に5百戸加増)→浚儀王(227年)→東阿王(229年)となる。この序には正史にある臨淄侯から安郷侯に格下げされた(221年)記述がなく、浚儀王からまたすぐ雍丘王に戻された(228年)点にも触れられていない。最後は陳王(232年/3千5百戸)で終わった。【居所は三たび】東阿王となった時点で、爵位は6回変わっているのに、住居は3回しか変わっていないという。「6」とか「3」とかいう数字は単なる修辞で、厳密に6回、3回というわけではないという説もあるが、ともかく「号(爵位)」と「居(居住地)」が一致しなくてもいいという認識に立っていることになり、要するに、爵位とは名目上のもので、生活の場所はまた別の問題だったようである。



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