相関図画像




補足説明

■この相関図は、曹植と特に親しかった楊脩・王粲・丁兄弟・荀惲を中心に、その関係者をピックアップしてみました。
■曹植の友人といっても、それぞれ立場が違う。王粲は文学を介して交流があり、楊脩は心情的にも実質的にも曹植の相談役であった。丁兄弟は王粲と同様、文学の同志であり、同郷人でもある。荀惲は曹植の妹(か姉)との婚姻関係によって義理の兄弟にあたる。
■禰衡は「現在許都でいちばんましなのは誰だね」と問われ、「年長には孔文挙(孔融)がおり、若いのには楊徳祖(楊脩)がいる」と答えている。(※巻10荀彧伝)
■孔融と荀彧は、楊彪が袁術との縁組関係を嫌われ、曹操に殺されそうになったのを弁護した(※巻12崔琰伝・巻26満寵伝)。楊脩は袁術の甥である。
■宝玉の件は巻13「鍾繇伝」に記載がある。曹丕は鍾繇が持っていた玉が欲しかったので、弟をパシリにして、それを手に入れたという話。これは曹植が間に入らないともらえないから仲介してもらったのか、曹植をパシリにするという事実が大事だったのか、よくわからない。ちなみに「宝玉事件」は、後継争いが始まっていたと思われる215年の話。
■王粲には『贈楊徳祖』という詩がある(※『顔氏家訓』文章篇)。
■王粲と鍾繇は「非聖人不能致太平」と説いた(※巻15司馬朗伝)が、司馬朗はそれに反論した。この件で、曹丕は司馬朗を支持している。
■王粲は曹操の使者として、しばしば鍾繇と会っていた(※鍾繇『力命表』)。
■丁儀と劉廙の著作(※巻21劉廙伝)のうち、丁儀の作とされている『刑禮論』(※『藝文類聚』巻54)が残る。
■曹操にとって最初の正室であった丁夫人を丁沖らの親族ではないかとする説は、『曹操-魏の武帝(石井仁)』による。
■楊俊は魏諷と通じていたわけではないが、当時中尉(=宮殿の警備担当者)であったから(※巻12徐奕伝)責任を取った。彼は曹操に曹丕と曹植の優劣を問われ、曹植をより高く評価したため、のちに曹丕によって処刑された(※巻23楊俊伝)。
■鍾繇は魏諷を推薦していたため、連座して免職となった。鍾繇は魏諷を推挙しただけでなく、かつて漢室復興を掲げて反乱を起こした吉本の一族である吉茂のことも、何かと気にかけて世話してやっている(※巻23常林伝)。同じく吉茂と関係の深かった蘇則は、曹操の魏王昇進を推し進めた董昭を「おべんちゃら」だと嫌い、魏が漢に取って代わったと知ったとき、喪に服して声をあげて泣いた(※巻16蘇則伝。ちなみに曹植が同じように泣いたという記事も蘇則伝にある)。吉茂の兄の吉黄は、後漢最後の司徒趙温が亡くなった時、逮捕されるのを承知で、わざわざ喪に服している。鍾繇自身も終わりゆく漢室に対し、いくらか似た思想を抱いていたのだろうか。実は曹植作品の過去の注釈家も、わりと曹植は後漢に忠義心を持っていたかのように解釈している。それが本音かどうかは別にして、確かに曹植は作品(※主に210年代の作品)の中で「曹家はあくまでも漢室の補佐である」ことを強調している。
■多分、第2弾につづく。





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