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臨淄侯(りんしこう)に答うる牋』
 脩死罪死罪。不侍數日、若彌年載。豈由愛顧之隆、使係仰之情深邪。
 損辱嘉命、蔚矣其文。誦讀反覆。雖諷雅頌、不復過此。若仲宣之擅漢表、陳氏之跨冀域、徐劉之顯青豫、應生之發魏國、斯皆然矣。至於脩者、聽采風聲、仰徳不暇、自周章於省覧、何遑高視哉。
 脩 死罪死罪。侍らざること数日にして、年載に彌(わた)るが若し。豈 愛顧の隆、係仰の情をして深からしむるに由らんや。
 嘉命を損辱するに、蔚(うつ)なるかな其の文や。誦読し反覆す。雅頌(がしょう)を諷すと雖も、復た此に過ぎず。仲宣の漢表に擅(ほしいまま)にし、陳氏の冀(き)域に跨(またが)り、徐・劉の青・豫に顯れ、應生の魏国に発するが若きは、斯(こ)れ皆然り。脩に至りては、風声を聴采し、徳を仰ぐすら暇あらず、自ら省覧に周章す、何ぞ高視するに遑(いとま)あらんや。
 脩、謹んで申し上げます。おそばを離れること数日にして、すでに一年が過ぎたような心持ちがいたします。これというのも、あなたの私を気にかけてくださることの、あまりに重く、そのことが私のお慕い申し上げます気持ちを、一層深いものとしているのでしょうか。
 お手紙、拝見しました。実に見事な、輝くはかりの文章です。繰り返し口に出して読み上げてみましたけれども、雅頌の詩もこれに優るものではないでしょう。文面にありますように、「王仲宣(王粲)が荊州で名声を欲しいままにし、陳孔璋(陳琳)が冀州においてそぴえ立ち、徐偉長(徐幹)・劉公幹(劉楨)が青州・予州で名をあらわし、応徳璉(応瑒)が魏で活躍している」というのは、まことにその通りです。しかし、私への評価に関しては、皆様のお教えを頂戴するばかりで、我が君の徳の高さを賛美することも十分ではなく、ただ日々の仕事に追われ、慌ただしい生活を送っているだけで、とても「高視する」余裕などありません。
【『臨淄侯に答うる牋』】曹植の『楊徳祖に与うる書』に対する楊脩からの返事。曹植は214~220年まで臨淄侯だった。『楊徳祖に与うる書』の無防備に訴えるような曹植の文面に対し、楊脩の返事は落ち着き払ってまったくつけ入る隙がない。曹植の手紙の要点を押さえつつ、逆にそれを利用して彼の才能をほめたたえている。 

 伏惟君侯、少長貴盛、體發旦之資、有聖善之教。遠近觀者、徒謂能宣昭懿徳、光贊大業而已。不復謂能兼覧傳記、留思文章。今乃含王超陳、度越數子矣。觀者駭視而拭目、聽者傾首而竦耳。非夫體通性達、受之自然、其孰能至於此乎。  伏して惟(おも)んみるに君侯、貴盛に少長せられ、発・旦の資を体し、聖善の教え有り。遠近の観る者、徒だ能く懿徳を宣昭し、大業を光賛すと謂うのみ。復た能く伝記を兼覧し、思いを文章に留むるを謂わず。今 乃ち王を含み陳を超え、数子を度越す。観る者 駭(おどろ)き視て目を拭い、聴く者 首を傾けて耳を竦(そば)だつ。夫の体通じ性達す、之を自然に受くるに非ざれば、其れ孰か能く此に至らんや。  考えてみますに、あなたは貴盛の家でお育ちになり、生まれながらに武王周公の如き資質をお持ちになり、聖人の善良なる教えを御自分のものとされています。知る人は皆、あなたが持ち前の美徳を輝かせ、この国家の大事業に貢献なさるであろうと申しております。しかもその上、古典を広くご覧になり、文学に心を砕いておられるとは考えもしなかったことです。すでにあなたは、王粲をわがものとし、陳琳を超越して、他の文土たちよりも遥か彼方に位置しておられます。見る者はただ驚きに目を奪われ、聞く者は頭を垂れて、耳をそはだてるばかりです。このように、才能が窮極の所に達しておられるのは、これを天が与えた資質でなくして、一体誰がここまでの境地に至りうるでしょうか。
【武王・周公】原文「発旦」。「発」は周の武王の名前。「旦」はその弟で、兄の武王とその子である成王を輔佐した周公の名前。  

 又嘗親見執事握牘持筆、有所造作、若成誦在心、借書於手、曾不斯須少留思慮。仲尼日月、無得踰焉。脩之仰望、殆如此矣。是以對鶡而辭、作暑賦彌日而不獻。見西施之容、歸憎其貌者也。  又 嘗(かつ)て親(みずか)ら執事の牘(とく)を握り筆を持ち、造作する所有るを見るに、成誦 心に在り、書を手に借るが若く、曾ち斯須 少しくも思慮を留めず。仲尼は日月、踰ゆるを得る無しと。脩の仰望すること、殆ど此くの如し。是を以て鶡に対して辞し、暑賦を作るも日を彌りて献ぜず。西施の容を見て、帰りて其の貌を憎む者なり。  また、かつてあなたが、を持ち、筆を手にして、文章を作ろうとされているお姿を拝見したことがありますが、表現する思いは既に心の中で形をなしていて、それを書き写すためだけに手を動かしているようで、少しの考え込む様子もございませんでした。孔子は日月に喩えられるもので、誰も越えることは出来ないと申しますが、私があなたを仰ぎ見る気持ちは、まさにそれと同じでございます。ですから、『鶡賦』を添削せよとの仰せではありましたが、お断り申し上げましたし、同名の『大暑賦』を作りましたが、いたずらに日を過ごして、結局献上することはいたしませんでした。たとえてみれは、西施の美しさを目の当りにして、己の醜悪なることを思い知らされたのです。
【牘】木ふだ。紙の代わり。紙は後漢時代、蔡倫によってすでに発明されていたが、相変わらず木ふだも使われていた。 

 伏想執事、不知其然、猥受顧賜、教使刊定。春秋之成、莫能損益、呂氏淮南、字直千金。然而弟子箝口、市人拱手者、聖賢卓犖、固所以殊絶凡庸也。今之賦頌、古詩之流。不更孔公、風雅無別耳。脩家子雲、老不曉事、彊著一書、悔其少作。若此仲山周旦之儔、爲皆有諐邪。君侯忘聖賢之顯跡、述鄙宗之過言、竊以爲未之思也。  伏して想うに執事、其の然るを知らず、猥りに顧賜を受け、刊定せしむ。春秋の成るや、能く損益するなく、呂氏・淮南、字 直千金。然して弟子 口を箝(かん)し、市人 手を拱(こまね)くは、聖賢の卓犖(たくらく)たる、固より凡庸に殊絶する所以なり。今の賦頌、古詩の流れなり。孔公を更(へ)ざるも、風雅 別つ無し。脩家の子雲、老いて事に曉(あき)らかならず、強いて一書を著し、其の少作を悔ゆる。此くの若ければ仲山・周旦の儔、皆諐(あやま)り有りと為さんや。君侯 聖賢の顕跡を忘れ、鄙宗の過言を述ぶるは、竊かに以って未だ之を思わずと為すなり。  伏して考えますに、あなたはこのような私の想いをご存知ないのでしょうか。過分にも心に留め置いていただき、この度は、私にあなたの作品を評価せよとのことです。その昔、『春秋』が完成すると、それに字を削ったり加えたりすることは誰も出来ませんでしたし、『呂氏春秋』や『淮南子』は、一文字の訂正に千金の賞金が懸けられました。このように、孔子の弟子たちが口を閉ざし、市井の人々が手を拱いているしかなかったのは、聖賢の人というのは卓越しており、凡庸な人間とは隔絶した場所に立っておられるからです。いまの辞賦は古詩の流れを汲むものです。たとえ孔子の手を経ていなくとも『風雅』と比べて異なるものではありません。私の同族である揚子雲は、年老いても物事をよくわきまえることがなく、その若い頃の作品を後悔する文章を作りました。しかし、もしそれが正しいのであれば、仲山甫周公旦といった先人は、皆間違っていたとでもいうのでしょうか。あなたほどの方が、聖賢の人々の著作の功績を忘れ、取るに足らないわが祖先の誤った言葉を引用なされるとは、恐れながら、よくよくお考えになった上でのこととは思えません。
【仲山甫・周公旦】仲山甫(樊穆仲)は周の宣王の臣、周公旦は周の武王の弟。仲山甫は『周頌』を作った人物とされる。周公旦は『鴟鴞』の詩を作った。(『史記』「魯周公世家」) 

 若乃不忘經國之大美、流千載之英聲、銘功景鍾、書名竹帛、此自雅量、素所蓄也。豈與文章相妨害哉。輒受所惠、竊備矇瞍誦詠而已。敢望惠施、以忝莊氏。季緒璅璅、何足以云。反答造次、不能宜備。脩死罪死罪。  乃ち経国の大美を忘れず、千載の英声を流し、功を景鍾に銘し、名を竹帛に書するが若きは、此れ自ら雅量、素の蓄うる所なり。豈に文章と相妨害せんや。輒(すなわ)ち恵する所を受け、竊かに矇瞍(もうそう)誦詠(しょうえい)に備うるのみ。敢えて恵施の、以って荘氏を忝(はずか)しむるを望まんや。季緒は璅璅たり、何ぞ以って云うに足らんや。反答 造次にして、宣備する能わず。脩 死罪死罪。  つまりは、経国の大事業をお忘れにならず、千年の後の世まで名声を残し、宗公の鐘に功績を刻んで、名声を竹帛に書き伝えられるというようなことは、もちろん、あなたの力量であり、本来から持っておられるところです。それがなぜ文章を作ることと妨げあったりするでしょうか。私があなたの作品を頂戴しましたのは、ひそかに口ずさませていただこうと思ってのことです。自分のことを恵施に見立て荘子を評価するつもりはございません。劉季緒は小才の者、取り立てて問題にする必要もないでしょう。以上、慌ただしくお返事申し上げましたので、十分に意を尽くしておりません。脩、謹んで申し上げます。

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