『楊徳祖に与うる書』

植白、數日不見、思子爲勞。想同之也。僕少小好爲文章、迄至于今二十有五年矣。然今世作者、可略而言也。昔仲宣獨歩於漢南、孔璋鷹揚於河朔、偉長擅名於青土、公幹振藻於海隅、徳璉發跡於大魏、足下高視於上京。 植 白す、数日見ざれば、子を思いて労と為す。之と同にせんことを想う。僕 少小より好んで文章を為り、今に至るに迄び二十有五年なり。然らば今の世の作者、略して言う可きなり。昔 仲宣は漢南に独歩し、孔璋は河朔に鷹揚し、偉長は名を青土に擅にし、公幹は藻を海隅に振るい、徳璉は跡を大魏に発し、足下は上京に高く視る。  拝啓。数日お目にかからないと、あなたのことが偲ばれて、胸の奥が苦しくなります。あなたもこれと同じ想いを抱いてくれているでしょうか。僕は幼い時から文章を作るのが好きで、これまで二十五年間、親しんでまいりました。それ故、近頃の文人について少しはふれてみることもできるかと思います。かつて仲宣どのは漢水の南で無双と称えられ、孔璋どのは黄河の北で鷹のように雄飛し、偉長どのは青州にあって名声をほしいままにし、公幹どのは山東の海辺で文名を輝かし、徳璉どのは魏の国にあっで異才ぶりを示し、あなたは京師において天下を睥睨(へいげい)しておられた。
楊徳祖(175-219)楊脩(ようしゅう)、字は徳祖(とくそ)。弘農華陰の人、楊彪の子。曹植擁立を企てたひとり。「天知る地知る我知る子知る」の名言で知られる楊震の玄孫で、弘農の楊氏は「四世太尉」という名門だった。『世説新語』や『三国志』に残された「鷄肋」「門にかいた活」「三十里の才」など、楊脩に関するエピソードは、彼がとにかく頭の切れる人物だったと繰り返し伝える。どんな仕事を任せても期待以上の働きを見せ、丞相主簿(文書や印璽を掌る)として仕えたが、曹丕を後継ぎにと決めた後、曹植派の筆頭であった楊脩が後の禍になるのをおそれた曹操に誅殺された。楊脩の伝は、楊震から楊彪に至る「四世大尉」の豪華な列伝とあわせて『後漢書』「巻54」にある。 【『楊徳祖に与うる書』】この書簡に対する楊脩からの返事は、『臨淄侯に答うる牋』として残っている。17歳年上の楊脩は、さらりと大人の対応をしている。こちらも『文選』所載の名文。楊脩は名門の子弟だから、曹操の子供たちは、競って彼と親しくすることを望んだが、なぜか楊脩は曹丕に冷たい態度だったという。 【二十五年】曹植が25歳だとすれば、216年(建安21年)の作ということになる。曹丕が立太子されるのは217年で、微妙な時期ではあるが、まだ曹植が後継者となる可能性があった頃に書かれたもの。相手の楊脩は当時42歳。 【仲宣・孔璋・偉長・公幹・徳璉】順に王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)・徐幹(じょかん)・劉楨(りゅうてい)・応瑒(おうとう)の字(あざな)。すべて当時の優れた文人であり、曹操の下に集められていた「建安七子」のメンバー。そもそも「建安七子」というのは、曹丕が「蓋し文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と文学の重要性を高らかに宣言したことで知られる『典論 論文』で、現代の著名な文人として名前を挙げた7人のことで、この5人の他に阮瑀と 孔融もいるが、両人はこの手紙の時点ですでに亡くなっており、曹植は二人に触れていない。ちなみに、曹丕が『典論 論文』を書いたのは、おそらく七子がすべて逝去した後で、この『楊徳祖に与うる書』より数年遅い。 



當此之時、人人自謂、握靈蛇之珠。家家自謂、抱荊山之玉。吾王於是設天網以該之、頓八紘以掩之、今悉集茲國矣。然此數子、猶復不能飛軒絶跡、一擧千里也。以孔璋之才、不閑於辭賦、而多自謂、能與司馬長卿同風。譬畫虎不成、反爲狗也。前有書嘲之、反作論、盛道僕讚其文。夫鍾期不失聽、干今稱之。吾亦不能妄歎者、畏後世之嗤余也。 此の時に当たり、人人 自ら謂う、霊蛇の珠を握ると。家家 自ら謂う、荊山の玉を抱くと。吾が王 是に於て天網を設け以て之を該ね、八紘を頓し以て之を掩い、今 悉く茲の国に集えり。然れども此の数子は、猶お復た軒を絶跡に飛ばし、一挙千里なるを能わず。孔璋の才を以てするも、辞賦には閑わず、而して多く自ら謂へらく、能く司馬長卿と風を同じくすと。譬えば虎を画きて成らず、反って狗と為るなり。前に書もて之を嘲うに、反って論を作りて、盛んに道う 僕 其の文を讃すと。夫れ鍾期は聴を失わず、今に于て之を称す。吾 亦 妄りに嘆ずる能わざる者は、後世の余を嗤わんことを畏るればなり。  このような時には、上述のすぐれた文人たちを含めて各人は、それぞれにかの「霊蛇の珠」にも比すべき素質を自分はもつものであると思い、それぞれの家々でも、かの「荊山の玉」にもたとえられる才能をかかえているものと思いこんでいました。そこでわが父、魏王におかれては、天をおおう網を設けて彼らを招致し、極遠の地に至るまで人材を捜し求め、今や、そのことごとくをこの魏の都へ集められました。しかし、中でもすぐれた文人である以上の数人でさえ、ひとたび羽ばたけば、たちまち雲間に姿をかくし、千里の遠くへ飛び去るというほどの完璧さは持つものではありません。孔璋〔陳琳〕どのほどの才能をお持ちの方でも、辞賦においては精熟の域に達しておりません。しかし彼自身は、常づね自分は司馬長卿と同等の風格をもつと思いこんでおられるようです。これは例えてみれば、虎を描こうとして至らず、犬の絵になってしまったようなものです。以前、僕はそのことを手紙に書いてからかったのですが、かえって僕が彼の文章を賞賛したと、さかんに論じているようです。鍾子斯(しょうしき)は、伯牙の真の理解者であったことにより、今に至るまで名声を博しております。やはり僕としては、彼をみだりに褒め称えるわけにはまいりません。それが後世の判断では、鑑識眼のないやつだと決められてしまう畏れがあるからです。
【霊蛇の珠・荊山の玉】霊蛇の珠は隋侯の珠のこと。荊山の玉は和氏の壁のこと。 【司馬長卿(紀元前179-前117)】司馬相如(しょうじょ)、字は長卿(ちょうけい)。蜀郡成都の人。漢の武帝のもと、宮廷詩人として栄達を極め、漢賦の典型を作った。型破りな人物で、卓文君と駆け落ちしたことは有名。壮大なスケールで描いた作品が多いが、表現が大袈裟すぎると、楊雄などには不評である。『史記』巻117、『漢書』 巻57に伝がある。 【虎を描こうとして至らず、犬の絵になってしまった】『小学』や『後漢書』には、馬援の言葉として載せる。しかし『後漢書』や『小学』は曹植より後の時代の著作物なので、彼が出典にしたのは別のものだろう。 【鍾子斯は、伯牙の真の理解者であった】『列子』「湯問」にこうある。「伯牙善く琴を弾き、鍾子斯善く聴く。伯牙琴を鼓(ひ)きて、志 高山に登るに在れば、鍾子斯曰く、善い哉、峩峩(がが)として、泰山の如しと。志 流水に在れば、鍾子斯曰く、善い哉、洋洋として江河の若しと。伯牙の念う所、鍾子斯必ず之を得たり。伯牙 泰山の陰に遊び、卒(にわか)に暴雨に逢い、巌下に止りて心悲しむ。乃ち琴を援きよせて之を鼓く。初め霖雨の操を為り、更に崩山の音を造る。曲奏する毎に、鍾子斯 輒(すなわ)ちその趣を窮む。伯牙 乃ち琴を舎(お)いて歎じて曰く、善い哉 善い哉、子の聴くや、夫れ志の想像すること、猶吾が心のごとし。吾 何に於てか声を逃れんやと。( むかし、伯牙は上手に琴を奏で、鍾子斯はそれを聴き分けたという。伯牙が高山に登ったときの心境を表現しようと琴を弾けば、鍾子斯は「ああ、素晴らしい。その音色はまるで高くそびえ立つ泰山のようだ」と言った。また、大河の流れを表現しようと琴を奏でれば、鍾子斯は「ああ、素晴らしい。その音色は広々としていて、まるで揚子江か黄河の流れのようだ」と言った。このように、伯牙の表現しようと思うことを、鍾子斯は必ず理解していた。あるとき、伯牙は鍾子斯と泰山の北に出かけ、思いがけず暴雨に遭遇し、岩陰で雨宿りをしていたが、心は悲しみに閉ざされた。そこで琴を引き寄せて、これを即興で弾きはじめた。はじめ「霖雨の曲」を作り、つづいて「崩山の音」を奏でた。演奏するたびに、鍾子斯はその心境を言い当てた。伯牙は演奏の手を休めて、感嘆してこう言った。「ああ、なんと素晴らしいことだろう。君が僕の琴の音を聴いて、そこに込められた真意を感じ取ること、すべて僕の意図と一致している。君にはいつまでも僕の琴の音を聴いていて欲しいものだ」と。)」 また、『呂氏春秋』「孝行覧本味篇」に、伯牙はその音色の真の理解者であった鍾子斯が死ぬと、弦を絶って二度と琴を奏でることはなかったという。 



世人之著述、不能無病。僕常好人譏彈其文、有不善者、應時改定。昔丁敬禮、嘗作小文、使僕潤飾之。僕自以才不過若人。辭不爲也。敬禮謂僕、卿何所疑難。文之佳惡吾自得之。後世誰相知定吾文者邪。吾常歎此達言、以爲美談。 世人の著述、病 無き能わず。僕 常に人の其の文を譏弾するを好み、不善なる者有れば、時に応じて改定す。昔 丁敬礼、嘗て小文を作り、僕をして之を潤飾せしむ。僕 自ら以えらく 才 若くのごとき人に過ぎずと。辞して為さざるなり。敬礼 僕に謂えらく、「卿 何の疑難する所ぞ。文の佳悪は吾 自ら之を得ん。後世 誰か吾が文を定むるを相知る者あらんや」と。吾 常にこ此の達言を歎じ、以て美談と為す。  世の人々の文章は、どれも全く欠点がないというわけにはまいりません。僕自身、常に進んで人から文章の欠点を指摘してもらうようにして、よくない箇所があれば、時に応じて改めるようにしております。以前、丁敬礼どのが小文を作って、私に加筆するように求めたことがあったのですが、僕は自分の才能が彼をしのぐものではないと思っていたので、お断りしました。しかし、敬礼どのは私にこう言いました。
「あなたは何故ためらわれるのです。文章の出来不出来についての評価は、すべて私自身が受けることになるのです。後世の一体誰が、私の文章にあなたの加筆があると知りうるでしょう」
 私は常づねこれは名言であると感服し、語りつぐべきりっぱな事がらだと思っております。
【丁敬礼(?-220)】丁廙(翼としている場合もあり)、字は敬礼。曹植を後継者にするため盛んに運動した丁兄弟の弟の方。文学に秀で、蔡文姫のために曹丕と競作で賦を作ったりした。しかし220年、皇帝となった曹丕によって、兄とともに誅殺された。 



昔尼父之文辭、與人通流。至於制春秋、游夏之徒、乃不能措一辭。過比而言不病者、吾未之見也。蓋有南威之容、乃可以論於淑媛、有龍泉之利、乃可以議於斷割。劉季緒才不能逮於作者。而好詆訶文章、掎摭利病。昔田巴毀五帝、罪三王、訾五覇、於稷下一旦而服千人。魯連一説、使終身杜口。劉生之辯未若田氏。今之仲連求之不難。可無歎息乎。人各有好尚。蘭茝蓀蕙之芳、衆人所好。而海畔有逐臭之夫。咸池六莖之發、衆人之所共樂。而墨翟有非之之論。豈可同哉。 昔 尼父の文辞、人と流れを通ず。春秋を制するに至りては、游夏の徒も、乃ち一辞を措く能わず。比を過ぎて病まずと言う者は、吾 未だ之を見ざるなり。蓋し南威の容有りて、乃ち以て淑媛を論ず可く、龍泉の利有りて、乃ち以て断割を議す可し。劉季緒は才 作者に逮ぶ能わず。而して好んで文章を詆訶し、利病を掎摭す。昔 田巴 五帝を毀り、三王を罪し、五覇を訾り、稷下に於て一旦にして千人を服せしむ。魯連 一説して、終身 口を杜さがしむ。劉生の弁は未だ田氏に若かず。今の仲連 之を求むること難からざる。息む無かる可けんや。人 各ゝ好尚有り。蘭茝蓀蕙の芳は、衆人の好む所なり。而して海畔に逐臭の夫有り。咸池 六莖の発するや、衆人の共に楽しむ所なり。而して墨翟に之を非とするの論有り。豈 同じくす可けんや。  その昔、孔子がお作りになった文章は、他人の意見をも交えられたものでした。しかし、『春秋』を書かれた場合には、子游・子夏でさえ、一語も加えることができなかったとのことです。これが唯一の例外で、他には何の欠点もないといわれる文章に、私はお目にかかっておりません。思いますに、南之威ほどの美貌の持ち主を知って、はじめて美人について論ずることができ、竜淵(りゅうえん)はどの切れ味をもつ剣を手にして、はじめて剣の鋭さについて議することができるというものです。劉季緒どのは才能が作者に及はないにかかわらず、他人の文章をあしざまに罵ったり、あらさがしをするのがお好きなようです。昔、斉の雄弁家田巴(でんぱ)は、五帝を攻撃し、三王を断罪し、五覇を非難し、短時間のうちに千人を説き伏せたのですが、魯仲連に論破されると、終生口を閉ざし、発言をやめたといわれております。劉君〔劉季緒〕の弁舌は田氏のそれに及ばないし、現代の魯仲連を見つけるのは難しくありません。このような彼の勝手な振舞いは、そのうちおさまることでしょう。人にはそれぞれに好みがあって、蘭・茝・蓀・蕙などの芳香は、誰もが好むところですが、海辺には異臭を好んでつきまとう男がいたということです。咸池や六茎という音楽が奏せられると、誰もが楽しさを覚えるものですが、墨子はこれを非難する論文を書きました。万人すべてが好みをともにすることは、あり得ないのでしょう。
【劉季緒】荊州を拠点に、曹操と覇権を争った劉表の子。「季緒」は字(あざな)で、皮肉なことに名は楊脩と同じ「脩」だったらしい。 【異臭を好んでつきまとう男】『呂氏春秋』「遇合」より。「人に大臭ある者有り。其の親戚兄弟妻妾知識、能く与(とも)に居る者無し。自ら苦しみて海上に居る。人に其の臭を悦ぶ者有り。昼夜随いて去らず。(あるところに、たいへんな臭いを放つ男がいた。その一族兄弟、妻側室から知人にいたるまで、彼の側に近寄ることが出来なかった。自分でもそのことを気にやんで、ひとり海のそばで暮らしていた。しかし、あるところにその臭いを好む者がいた。昼となく夜となく付き従って、側から離れようとしなかった。)」 



今往僕少小所著辭賦一通相與。夫街談巷説、必有可采。撃轅之歌、有應風雅。匹夫之思、未易輕棄也。辭賦小道。固未足以揄揚大義、彰示來世也。昔揚子雲、先朝執戟之臣耳。猶稱壯夫不爲也。吾雖徳薄、位爲藩侯。猶庶幾戮力上國、流惠下民、建永世之業、流石之功。豈徒以翰墨爲勳績、辭賦爲君子哉。 今往 僕 少小より著す所の辞賦一通 相与う。夫れ街談巷説も、必ず采る可き有り。撃轅の歌も、風雅に応ずる有り。匹夫の思いも、未だ軽ゝしく棄て易からざるなり。辞賦は小道なり。固より未だ以て大義を揄揚し、来世に彰示するに足らざるなり。昔 揚子雲は、先朝の執戟の臣なるのみ。猶お「壯夫は為さざるなり」と称す。吾 徳は薄しと雖も、位は藩侯為り。猶お庶幾くは力を上国に勠わせ、恵みを下民に流し、永世の業を建て、金石の功を流さん。豈 徒だに翰墨を以て勳績と為し、辞賦もて君子と為さんや。  今ここに、私が若い時に作りました辞賦若干をお送りして献呈いたします。思うに、街頭で世間の人が口にする説話の類にも、必ず採用して然るペきものがあり、車の轅をたたきながら歌う俗謡の中にも、『詩経』の国風や大雅・小雅に通ずるものがあります。たとえそれらが、つまらぬ人間の口から出たものであったとしても、その思いは軽がるしく捨て去ってよいというものではありません。 考えてみれは、辞賦などというものは、つまらぬ技芸にすぎないものであって、大いなる道義を宣揚して、未来に顕示するにふさわしいものではありません。普、揚子雲は、矛を持ちつつ宮廷を警護する漢朝の小役人にすぎなかったのですが、それでも「辞賦などは一人前の男子のすることではない」と述べています。私は徳に欠ける者ではありますが、位は諸侯である以上、お国のために力をあわせ、恩恵を人民に及ぼし、後の世につながる業績をうち立て、金石に刻みつけられる功績をあげるべきだと考えております。どうして、文章を残したりすることが勲功であり、辞賦を作ることが君子の証であるなどと思いましょうか。
楊子雲(紀元前53-後18)】楊雄(ようゆう)、字は子雲(しうん)。蜀郡成都の人。姓は「揚」か「楊」かの議論があるが、この手紙の返事で、楊脩が「脩家子雲(私の同族の子雲)」といっているから、おそらく「楊」なのだろう。 40過ぎて洛陽に出て、『甘泉賦』『河東賦』『羽猟賦』『長楊賦』を成帝に奏上し、給事黄門郎となった。前漢の滅亡後、後世に簒奪者扱いされている王莽に仕えて大夫となり、『劇秦美新』を作って新を賛美した。しかし、それは彼の本意ではなかったとする説もある。新は十数年で瓦解したが、楊雄はそれを見ることなく、この世を去った。『漢書』巻87に伝がある。 【「辞賦などは一人前の男子のすることではない」】楊雄の『法言』「吾子」に「彫虫篆刻は壮夫は為さず」とある。 



若吾志未果、吾道不行、則將采庶官之實録、辯時俗之得失、定仁義之衷、成一家之言。雖未能臧之於名山、將以傳之於同好。此要之皓首、豈今日之論乎。其言之不慚、恃惠子之知我也。明早相迎。書不盡懐。曹植白。 若し吾が志 未だ果たされず、吾が道 行われざれば、則ち将に庶官の実録を采り、時俗の得失を弁じ、仁義の衷を定め、一家の言を成さんとす。未だ之を名山にする能わずと雖も、将に以て之を同好に伝えんとす。此れ之を皓首に要むるにして、豈 今日の論ならんや。其の言の慚じざるは、恵子の我を知るに恃むなり。明早 相迎えん。書は懐いを尽くさず。曹植 白す。  もし、以上に述べました志が果たされず、私が道にそって行動することが許されないのであれば、史官の立場から事実の記録を行ない、それによって、現代の風俗を批判し、道徳の根底を位置づけ、一家の言を成したいと思います。と言いましても、私はそれを司馬遷のように名山に秘蔵するという程にはまいりませんが、せめてこころある人に伝えたいと考えております。もっとも、これは私が老年に達するまでに何とかしようという話であって、今すぐどうこうというわけではありません。このように、恥ずかしげもなくつらつらと申し述べましたのは、あなたが僕に恵子の如き理解を示してくれているのを恃んでのことです。明日の朝、お会いしましょう。手紙では思いを語り尽くすことが出来ません。曹植より。
【一家の言を成し・名山に秘蔵】司馬遷『任少卿に報ずるの書』に言う、「以って天人の際を究め、古今の変を通じ、一家の言を成さんと欲す。…僕 誠に以て此の書を著し、諸(これ)を名山に蔵し、之を其の人に伝え、邑の大都に通ずれば、則ち僕 前辱の責を償う、万戮せらるると雖も、豈 悔ゆる有らんや。然れども此れ、智者の為に道(い)う可し、俗人の為に言い難きなり」をふまえる。 恵子の如き理解恵子(恵施)は『荘子』に何度も登場する論戦相手。たいてい荘子に言いくるめられる道化役だが、恵子の死後、荘子がともに語り合う人物がいなくなったと嘆いているところをみると、本当は仲良しだったらしい。確かに恵子は奔放で超俗的な荘子に、何かと世話を焼いたり、たしなめたりしてくれる、貴重な人物であった。『荘子』「徐無鬼」にいう、「荘子、葬を送り、恵子の墓を過る。顧みて従者に謂いて曰く、「郢(えい)人、堊(お)もて 其の鼻端に漫(ぬ)ること蝿の翼(はね)の若し。匠石をしてこれを削らしむ。匠石、斤を運(めぐ)らして風を成し、聴(まか)せてこれを削る。堊を尽くして鼻 傷つかず。郢人 立ちて容を失わず。宋の元君これを聞き、匠石を召して曰く、『嘗試(こころ)みに寡人の為めにこれを為せ』と。匠石曰く、『臣は則ち嘗(かつ)て能くこれを削れり。然りと雖も、臣の質は死して久し』と。夫子の死してより、吾れ以て質と為すなし。吾 与にこれを言うなし(荘子は、ある人の葬儀に参列し、その時、恵子の墓の前を通った。振り返って従者に言った。「楚の国の郢の人が、その鼻の上に、蝿の羽くらい微量の白い壁土を塗り、それを大工の棟梁の石に削らせた。石が鉞(まさかり)をふるって、さっと風が起こったと思うと、あっという間に郢の人鼻先の壁土を削り取ってしまっていた。それが見事なことに、土は落ちても、鼻には傷ひとつ見あたらない。しかも郢の人は、その間、立ったまま顔色ひとつ変えなかった。宋の元君はこの噂を聞いて、石を召し出し、『私にもあの芸当を見せてもらえぬか』と頼んだ。しかし、石はこう言った。『私は確かに以前はそれを削り取ることが出来ました。しかし、私の相棒が亡くなってから、もう随分時が経ちます』と。―――君が死んで以来、私には論戦の相手に値する人物が見つからない。もう議論の妙を披露することも出来なくなったよ」 【手紙では思いを語り尽くすことが出来ません】原文「書不盡懐」。『中庸』に孔子の言葉として「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず(書不盡言、言不盡意)」とある。「書」は文章にした言葉、「言」は話し言葉。それでも本当の気持ちは伝えがたいということ。



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