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『典論 論文』


文人相輕、自古而然。傅毅之於班固、伯仲之間耳、而固小之、與弟超書曰、武仲以能属文、爲蘭台令史、下筆不能自休。 夫人善於自見、而文非一体、鮮能備善。是以各以所長、相輕所短。里語曰、家有弊帚、享之千金。斯不自見之患也。 文人の相軽んずること、古より然り。傅毅の班固に於けるは、伯仲の間なるのみ、而るに固は之を小とし、弟 超に与うる書に曰く、「武仲は能く文を属るを以て、蘭台令史と為るも、筆を下すこと自ら休む能わず」と。 夫れ人は自から見るに善きも、文は一体にあらず、能く善を備えること鮮なし。是を以て各ゝ長ずる所を以て、短ずると所を相い軽んず。里語に曰く、「家に弊れたる帚 有り、之を千金に享つ」と。斯れ自ら見ざるの患なり。  文人が互いを軽んじるのは、昔からよくあることである。傅毅班固は、互いに優劣を競い難いが、班固は傅毅を侮って、弟の班超に宛てた手紙の中で「武仲〔傅毅の字〕は文章が上手いということで蘭台令史になったが、その文章はだらだらしまりがない」と言った。そもそも人は自分の基準で判断できる範囲のことは正しくこなせるが、もとより良い文章のあり方というのは、一様ではないから、そのすべてに精通するというのは難しい。だから、自分の得意な土俵に立って、他人の劣る部分を指摘して馬鹿にするのである。こんな言葉がある。「たとえボロボロの箒(ほうき)でも、自分の家のものだと思うと千金の値をつけてしまう」―――これは要するに、自分の欠点には目を向けようとしない人間の愚かしさを言っている。
【『典論 論文』】「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり。」と文学の価値を高らかに宣言し、中国文学史の重要な分岐点となった曹丕の著作。建安の文壇を総括し、かつのちの『文心雕竜』につながっていく文学論のはしりとされる。「論文」とは「文を論じる」の意味。曹丕の「論」は現代人が読んでも違和感がないほど論理的に展開する。   【傅毅】(?~89)字は武仲。茂陵の人。章帝のとき班固らとともに蘭台令史となった。曹植の『七啓』の序に、『七激』の作者として登場する。『後漢書』巻80上「文苑伝」に伝がある。   【班固】(32~92)字は孟堅。扶風安陵の人。後漢の文人。班家は父彪、弟超、妹昭も学問に通じる学者一家だった。父の遺志を受けて『漢書』を著した歴史家として知られるが、『両都賦』などの優れた文学作品も多い。『後漢書』巻40に伝がある。  【優劣を競い難い 】原文「伯仲之間」。「伯」は長男、「仲」は次男。たいして違わないこと。  【蘭台令史 】蘭台は後漢時代の宮廷図書館。   

今之文人、魯國孔融文擧、廣陵陳琳孔璋、山陽王粲仲宣、北海徐幹偉長、陳留阮瑀元瑜、汝南應瑒德璉、東平劉楨公幹、斯七子者、於学無所遺、於辭無所假。咸以自騁驥騄千里、仰齋足而竝馳。以此相服、亦良難矣。蓋君子審己以度人、故能免於斯累、而作論文。 今の文人は、魯国の孔融文擧、広陵の陳琳孔璋、山陽の王粲仲宣、北海の徐幹偉長、陳留の阮瑀元瑜、汝南の応瑒德璉、東平の劉楨公幹、斯の七子は、学に於いて遺す所なく、辞に於いて仮る所なし。咸 以えらく自ら驥騄を千里に騁せ、仰ぎて足を斉しくして並び馳すと。此を以て相服せしむるは、亦 良に難し。蓋し君子は己を審らかにして以て人を度る、故に能く斯の累を免れて、論文を作る。  当世の名だたる文人と言えば、魯国の孔融、字は文拳、広陵の陳琳、字は孔璋、山陽の王粲、字は仲宣、北海の徐幹、字は偉長、陳留の阮瑀、字は元瑜、汝南の応瑒、字は德璉、東平の劉楨、字は公幹、以上の7人は、学問を幅広く修め、その言葉にはそれぞれ独自の世界観がある。そこで各々自分は千里を駆ける駿馬で、頂点に向かって足並みそろえて馳せていると思っていた。このような状況で、相手に屈服するようなことは大変難しい。そもそも君子とは、己の力量を正確に把握してから他人を正しく評価するものである。そうすることで相手を低く評価してしまうような欠点から逃れて、真に文学を論ずることが出来るのだ。
【今の文人…(以下)】「魯国孔融文擧」以下、曹丕のおかげで、のちに《建安七子》と呼ばれることになった文人の名前を列挙する。 

王粲長於辞賦、徐幹時有齋氣、然粲之匹也。如粲之初征、登楼、槐賦、征思、徐幹之玄猿、漏巵、圓扇、橘賦、雖張蔡不過也。然於他文、未能稱是。琳瑀之章、表、書、記、今之雋也。應瑒和而不壮、劉楨壮而不密。孔融體氣高妙、有過人者。然不能持論、理不勝詞、以至乎雑以嘲戯。及其所善、楊班儔也。 王粲は辞賦に長じ、徐幹は時に斉の気有り、然れども粲の匹なり。粲の初征、登楼、槐賦、征思、徐幹の玄猿、漏巵(ろうし)、円扇、橘賦の如きは、張・蔡と雖も過ぎざるなり。然れども他文に於ては、未だ是に称う能わず。琳・瑀の章、表、書、記は、今の雋なり。応瑒は和して壮ならず、劉楨は壮にして密ならず。孔融は体気高妙にして、人に過ぐる者有り。然れども論を持する能わず、理は詞に勝らず、以て雑(まじ)うるに嘲戯を以てするに至る。其の善くする所に及んでは、楊・班の儔なり。  王粲は辞賦に長じており、徐幹の作品には時おり斉国風の弛緩した調子が見えるが、出来栄えは王粲と肩を並べている。王粲の『初征の賦』『登楼の賦』『槐の賦』『征思の賦』、徐幹の『玄猿の賦』『漏巵の賦』『円扇の賦』『橘の賦』などは、張衡蔡邕(さいよう)に匹敵する作品と言えるであろう。しかし他の様式の作品については、そこまでの出来とは言えない。陳琳・阮瑀の章・表・書・記は、現在の最高水準である。応瑒の作品はバランスはよいが力強さに欠け、劉楨の作品は力強くはあるが綿密ではない。孔融の作品は体気の高妙さという点で、他の者たちの追随を許さない。しかし、論理的に進行することが出来ないため、中身が言葉に追いつかず、かえって諧謔的な表現でお茶を濁ししまうことがある。しかし出来のいいものについては、楊雄・班固と肩を並べるほどである。
【張衡・蔡邕】張衡(78-139)・蔡邕(133-192)。いずれも後漢の賦の大家。【揚雄・班固】班固は一段目に登場。→揚雄 

常人貴遠賎近、向聲背實。又患闇於自見、謂己爲賢。夫文本同而末異。蓋奏議宜雅、書論宜理、銘誄尚実、詩賦欲麗。此四科不同、故能之者偏也。唯通才能備其体。文以氣爲主、氣之清濁有体、不可力強而致。譬諸音樂、曲度雖均、節奏同検、至於引氣不斉、巧拙有素、雖在父兄、不能以移子弟。 常人は遠きを貴び近きを賎しみ、声に向かい実に背く。又 自ら見るに闇く、己を謂いて賢と為すの患いあり。夫れ文は本 同じくして末 異なれり。蓋し奏議は宜しく雅なるべく、書論は宜しく理なるべく、銘誄は実を尚(たっと)び、詩賦は麗しからんことを欲す。此の四科は同じからず、故に之を能くする者は偏る。唯 通才のみ能く其の体を備う。文は気を以って主と為し、気の清濁に体あり、力(つと)め強いてすべからず。諸(これ)を音楽に譬うるに、曲度 均しと雖も、節奏 検を同じくするとも、引気 斉しからず、巧拙に素あるに至りては、父兄に在りと雖も、以って子弟に移す能わず。  凡人は遠いものを尊重して近いものを軽視して、評判に気をとられて、実質を見失いがちである。また自分自身を見つめることが出来ず、我こそは賢人だと思い込んでしまう悪い傾向がある。そもそも文学の根本精神はひとつだが、その表現にはそれぞれ特徴があるものだ。思うに奏議は典雅であること、書論は論理的であること、銘誄は事実と一致していること、詩賦なら華麗さが要求される。これらの4つは同じ能力ではない。だから各人得意な分野には偏りがある。ただ万能の素質をもつ者だけが、それらすべてをこなすことができるのである。文学は気を基礎に成り立つが、気の清濁には最初から各自の個性があって、それを強制して方向付けることは出来ない。音楽にたとえれば、曲調が同じでリズムも等しいとしても、呼吸の仕方が同じではなく、巧拙の素質に差があるなら、父や兄であっても、その子弟にそっくり伝えることは不可能なのである。
【奏議】奏は上奏文。主にお上に対する政治的な意見を述べるもの。議は政治的な課題を論議するための文章。 【書論】。書は書簡文。論は論文。曹丕は書と論をひとまとめにしているが、『文心雕龍』ではそれぞれ別のタイプのものとして取り上げている。曹丕の時代は、まだ書と論の性質が近かったのかもしれない。 【銘誄】銘は器物や石碑に刻む文章。誄は死者を弔う追悼文。奏議書論と違い、銘誄は韻文であることが要求される。 【詩賦】賦は詩の中の一ジャンルを特化して進化させたもので、詩賦は元来は同じものとされる。ともに韻文である。 【父や兄であっても…】この段の最後の一文は、非常に意味深である。この言葉を選んだ曹丕の脳裏に、父や弟のことが浮かばなかったはずはない。しかし、文学に関して曹丕を凌ぐ才能を持つとされていた曹植は、「辞賦は小道なり(『與楊徳祖書』)」と、文学をばっさり切り捨てていた。おそらく『典論』は『與楊徳祖書』より後に著された作品である(←確証はないが、建安の七子に対する記述の仕方から考えると、『典論』は七子の死後(217年以降)に書かれ、『與楊徳祖書』はまだ七子が生きていた時に書かれたとするのが自然かと思われる)。先にあった曹植の発言をふまえた上で、次の「文章は経国の大業」という曹丕独自の文学観につながっていく。 

蓋文章經國之大業、不朽之盛事。年壽有時而尽、榮樂止乎其身。二者必至之常期、未若文章之無窮。是以古之作者、寄身於翰墨、見意於篇籍、不假良史之辭、不託飛馳之勢、而声名自傳於後。故西伯幽而演易、周旦顯而制禮。不以隠約而弗務、不以康樂而加思。夫然則古人賎尺璧而重寸陰、懼乎時之過已。而人多不強力、貧賎則懾於飢寒、富貴則流於逸樂、遂營目前之務、而遺千載之功。日月逝於上、体貌衰於下、忽然与萬物遷化。斯亦志士之大痛也。融等已逝、唯幹著論、成一家言。 蓋し文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり。年寿は時ありて尽き、栄楽は其の身に止まる。二者は必至の常期にして、未だ文章の無窮なるに若かず。是を以って古の作者は、身を翰墨に寄せ、意を篇籍に見(あらわ)し、良史の辞を仮りず、飛馳の勢いに託せずして、声名 自ずから後に伝わる。故に西伯は幽(と)らわれて易を演(の)べ、周旦は顕れて礼を制す。隠約を以って務めずんばあらず、康楽を以って思いを加(うつ)さず。夫れ然らば則ち古人は尺璧を賤しんで寸陰を重んずるは、時の過ぐることを懼るるのみ。而るに人は多く強い力(つと)めず、貧賎なれば則ち飢寒を懾れ、富貴なれば則ち逸楽に流れ、遂に目前の務めを営んで、千載の功を遺(わす)る。日月は上に逝き、体貌は下に衰え、忽然として万物と遷化す。斯れ亦 志士の大痛なり。融等 已に逝き、唯だ幹のみ論を著して、一家の言を成す。  思うに文章は、国を治める大事業にも関わる永久不変の功績である。寿命にはいつか終わりがあるし、栄華や快楽もただ生きている間にしか味わうことが出来ない。これらの二つには必ず終わりがあって、優れた著作が永久に不滅であることには及ばない。だから古来より人々は書物を書き残し、自らの意志を作品として残し、歴史官の言葉を借りなくとも、また権勢に頼むことをしなくても、名声はおのずから後世に伝わっていったのである。だから西伯は幽閉されて『易経』を完成し、周公旦は高い地位にあって『礼』を制定した。困窮しても著述に努め、安楽な生活を営んでいても創作の意志を見失うことはなかった。そんなわけで昔の人が一尺もある宝玉を軽んじても、一寸の時間を重んじたのは、あっという間に時が過ぎ去ってしまうのを懼れたからである。それなのに今日の人々は、たいした努力もせず、貧賎のときは飢えや寒さを心配し、富貴になれば逸楽にふけって、目の前の雑事に追われるままに、千年の功業を忘れてしまっている。日月が天上を行き過ぎ、肉体は下界で衰え、あっという間に万物とともに終わりを迎える。これは志ある者にとって、最も悲しむべきことである。孔融らはすでにこの世を去り、ただ徐幹のみが『中論』を著して、独自の思想を打ち立てた。
【国を治める大事業】有名な「文章は経国の大業」というフレーズは、この論全体の流れから見ると、むしろ唐突にさえ思える。実際、「経国之大業」を飛ばして読んだ方が、次の一文とのつながりがスムーズである。「文章経国之大業」というシンプルな言葉からは、曹丕の言いたかったことが、「文章=経国に関わる大事な仕事」という意味なのか、「文章=経国の大業に匹敵する重要な仕事」という意味なのか、よくわからない。要するに、前者は《内容》的な一致と採り、後者は《レベル》的な一致と採ったことになる。後の世に伝わった文章の例として、『易経』や『礼』といういくらか政治的な著作を挙げている点では、《内容》的に文章が経国に関わると主張しているようにも思える。一方、話の唐突さからは《レベル》的なもの、つまり文章の重要さを主張するための修辞としてこの言葉を採用しただけのようにも思える。ちなみに、楊脩の『臨淄侯に答うる牋』に「経国之大美」という似たような表現があって、そこでは「経国(政治)」と「文章(文学)」は全く別物だと認識している。楊脩の認識が当時の普通のものであったとすれば、曹丕のこのフレーズは、現代人が感じる以上にセンセーショナルなものだったのかもしれない。【西伯】周の文王。殷の紂王は彼の名声を怖れて迫害した。羑里(ゆうり)で投獄され、その間に『易経』の理論を発展させたといわれる。のち、その子武王が殷を滅ぼし天子の位に就いた。【周公旦】武王の弟。武王が亡くなった後、その子成王の摂政となって仕え、諸制度を整えた。 

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